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現世のご利益ではなく死後の往生を説く阿弥陀仏の起源や信仰とは

仏教といえば「南無阿弥陀仏」の念仏を連想する人は多いのではないだろうか。浄土宗・浄土真宗など浄土系仏教では阿弥陀仏を本尊とし、真言・天台宗派でも阿弥陀如来として尊崇されている。なぜ阿弥陀仏は仏教の開祖である釈尊(ゴータマ・ブッタ)と並ぶ地位にいるのか。阿弥陀仏の救いとは。

初詣の歴史は意外に浅い!初詣定着に一役買ったのは鉄道会社だった?

新年を迎え、多くの方が寺社へ初詣に参拝されるのが国民的行事として習わしとなっているが、今年は新型コロナウイルスの影響で、三が日の人出は例年とは異なる風景であった所が多いのではないだろうか。また、大晦日の終日運転が中止となり、寺社では例年に比べて静かな年越しとなった所がほとんどであろう。分散参拝の呼びかけに伴い、大晦日終日運転を中止にしたニュースは衝撃的であったが、その効果の大きさをまじまじと感じた。


空海が日本に持ち込んだ密教の世界観を描く芸術 曼荼羅(まんだら)

見る者に神秘的な印象を与える曼荼羅。言葉で伝えるには限界がある宗教的な世界を抽象的に表現した密教芸術も、日本に渡ると全く異なる世界の描写へと変貌していく。しかしそれは人間が共通して持つ他界への憧れの表出であった。

福岡県直方市の須賀神社にある「建武(けんむ)の板碑」を調べてみた

かつて「筑豊三都」の一角を占め、石炭産業で興隆を極めた、福岡県直方市上境の須賀神社の裏手に、「建武(けんむ)の板碑」と呼ばれる、古い石造物が祀られている。板碑とは、鎌倉時代に多くつくられた、死者の供養のために立てる塔婆の一種だ。頂上を山形に整え、その下に二段の切り込みと額部をつくり、広く設けられた身部には、供養の対象となる本尊を仏像や梵字を刻む。そしてその下に造立の願文・願主名・年紀を記す。大きさや高さそのものは巨大なものが少なくないが、厚みが薄く、板のように見えるため、「板碑」と呼ばれている。特に埼玉県・秩父産の緑泥片岩製の「関東型」と呼ばれているものが有名だ。


日本仏教はブッダの説いた仏教とは違うというよくある批判への反論

近年、日本の仏教は何かと批判の対象にされやすい。葬儀の簡略化や墓じまいなど寺離れが加速している。そうした風潮に葬儀や墓の大切を説くと、日本の仏教はブッダの説いた仏教ではない偽物の仏教であると反論されることがある。歴史的には否定できないものがあるが、それは仏教の本質なのだろうか。

A級戦犯と呼ばれている7人はどのようにして最期を迎えたか

人は死を前にして本性が出ると言われる。「A級戦犯」と呼ばれる7人の死に様とはどのようなものだったのか。なお「戦犯」という呼称、いわゆる「東京裁判」の正当性などの歴史問題については今に至るまで論争が絶えず、見解を述べるのは筆者の手に余る。本稿では死刑執行を前にした人間の心について考えたい。


浅草寺の本尊は飯能市にある岩井観音堂の観音が起源という説について

埼玉県南西部に位置し、東を狭山市・入間市に、南を東京都の青梅市・西多摩郡奥多摩町に、西を秩父市・秩父郡横瀬町に、北を比企郡ときがわ町・入間郡越生町と毛呂山町・日高市に囲まれ、西の秩父山地に向かって飛び跳ねる魚の形に似ているとされる飯能市の中で、青梅市と境を分かつ格好で流れる成木川(なりきがわ)の河岸に、「岩井観音堂」がある。それは東京都道・埼玉県道195号線脇の階段を上り、巨岩の脇の参道を上り切ったところにある小さな観音堂なのだが、ここにかつて祀られていた観音像が流れ流れて、距離にしておよそ100km先の、東京都台東区浅草の浅草寺(せんそうじ)の御本尊となったという言い伝えがある。

もうひとつのキリスト教 ギリシャ正教の歴史や西方教会との違い

日本においてキリスト教といえばローマ・カトリックと、そこから分かれたプロテスタント諸派のことである。しかし、東ヨーロッパを中心に発展してきた東方正教会(オーソドックス)を知る日本人は多くはない。東方正教会いわゆる「ギリシャ正教」をいくつかのトピックに絞って概観したい。


宗教に依るのではなく、宗教を道具として活用するという考え方

未来(生活)が見えない不安と、確実に来る未来(死)への恐れ。科学では解決できない問題に対応するために、宗教を道具として「活用」することはできないだろうか。

再生と死という相反する二つの意味を象徴する月の逸話を紹介

満ち欠けをすることから「死」と「再生」の象徴とされる月。日本ではお月見の風習など、風雅な存在として月を捉えることが多いが、西洋では月の光を浴びると狼に変身するなど、狂気を伴う印象が強い。ラテン語で月を表す「luna」が語源の英語「lunatic」は、狂人という意味を持つ。晩秋に月についてあれこれ考察してみたい。



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