葬儀と仏教の関係は絶対的なものではない。神道式、キリスト教式、無宗教の直葬、自然葬もある。そうした中、仏式葬儀においては仏教の重要な教えを見出すことができる。例えば参列者に配られる葬式まんじゅうには他者に「慈悲」の行為を施す「布施」の心が反映されている。

葬式まんじゅうに込められた仏教「布施」の心
現代では参列のお礼ほどの意味で葬儀で配られる葬式まんじゅう。元来は自分が所有している物を他者に分け与え、徳を積む布施行の意味があった。仏教では欲望に執着することで、この世への未練が残り成仏できないとされている。遺族は身銭を切って参列者に施す。つまり物欲の執着を捨てて、故人を成仏させるための行というわけである。なお、金や物を持っていなくても行為そのものが布施行になりうることもある(参照記事)。
また、山陰地方(島根・鳥取・岡山)の一部地域では、まんじゅうではなく「法事パン」と呼ばれるあんパンが配られる。元々は出雲大社の神事「神在祭(かみありさい)」で配られた「神在餅(じんざいもち)」と呼ばれるあんこ餅が原型で手軽に用意できるパンになったという。
余談だが、浄土真宗本願寺派の東京本山、築地本願寺では数年前まで、親鸞の月命日である毎月16日の朝に、朝粥とあんパンを無料で配布していた。あんパンは宗祖・親鸞が小豆を好んでいたという話に由来する。いずれもあんこが入る甘味である。
参照記事:「与えられるものが何もなくても人は人を幸せにできる 無財の七施」
歴史的な甘味に込められた、布施という利他の精神
「甘味」を与える行為は、まさに布施の心を表しているといえる。人間と甘味の関係は切実なものだった。人類の歴史は甘味を欲した歴史でもある。言うまでもなく糖分は必要不可欠な要素だが、自然界から甘味を抽出できるものは多くない。かつては甘味を享受できる者は限られた身分だった。
ーいずれの方法であれ大なり小なりの労力を必要とするため、得られた甘みは非常に貴重なものであった。そして乱暴な言い方をすれば,力のある者のみが甘みを獲得できたわけで,甘みを独占することは権力の象徴でもあったー(南直人「歴史における甘みの役割」)
貴重な甘味であるから、分け与えるにはそれなりの覚悟が必要だったと思われる。後述する「捨身飼虎」に見られるように布施をする側の負担が大きいほど、他者に施すことは困難である。だが負担が軽いものでは、貧しい人にコインを1枚投げ与えるような、相手を見下す傲慢な意識が出てくるものだ。自分も苦しいからこそ綺麗事では終わらない慈悲の行となる。現代ではなんということない甘味にも深い歴史と意味を持っているのである。
見返りを求めないヒーロー アンパンマンに学ぶ布施の心
甘味と布施といえば、子供たちのヒーロー、アンパンマンに触れないわけにはいかない。アンパンマンは困っている人を助け、特におなかがすいて泣いている人には、自らの顔をむしって分け与える。作者のやなせたかし(1919-2013)は、何が正義なのかは時代や環境によって変わる。しかし「目の前の飢えている人に食べ物を与える」行為は絶対的な善、正義であるとの考えに戦争体験を通じて達したという。アンパンマンは顔を分けると力が半減してしまい、空を飛ぶのすらおぼつかなくなる。宿敵バイキンマンにはしばしばそこを突かれて窮地に陥っている。それでも彼は飢えた人に自らを与え続ける。自らの身体を食べ物として与える行為は、仏陀が前世で飢えた虎に自らを差し出したという究極の布施「捨身飼虎」を思い起こさせる。また、アンパンマン自身は食事を一切摂らない。ただ美味しそうにしている人たちをニコニコ笑って見ているだけである。顔を分け与えながら、自らは何ももらうことはしない。アンパンマンは見返りを求めない布施の権化のような存在である。さらに付け加えるなら、アンパンマンは殺生はしない。バイキンマンに対しても家に強制送還して終わりというのがパターンである。彼の身体がアンパンという甘味であることは偶然にせよ象徴的といえる。
葬儀の甘味に宿る「布施」の心 故人への最後の贈り物
仏式の葬儀、法事でふるまわれる食べものは布施の心、慈悲の心が表現されている。葬儀とは死者が無事あの世へ旅立ち、あの世でも幸せになれるよう祈る慈悲の行である。どのような形式であれ、見送る側の心に変わりはないが、明確に布施行を説く仏教の教えが葬儀の主流になったのはそういった要素もあったのかもしれない。旅立つ人への最後の施し、心を込めて送りたい。
参考資料
■南直人「歴史における甘みの役割」『立命館言語文化研究』 32巻1号 立命館大学国際言語文化研究所(2020)
■日仏商事株式会社ホームページ 「山陰地方ではあたりまえ!?法事にパンを配る習慣を調べてみました」