AIの急速な進化は文学や絵画の領域すら踏み込んで来る、「人間外知的生命体」といってよい存在になりつつある。そしてそれは人類の見果てぬ夢を実現させてしまうのだろうか。死者の復活である。

「死者の復活」と話題になった最新AI技術の驚くべき可能性
アメリカの司法裁判の法廷で、被告に殺害された被害者男性がAIによって再現され意見陳述を行った。AIによる男性は加害者に対して「私は許しと、許す神を信じている。ずっとそうだったし、今でもそうだ」と加害者を許す言葉を述べた。遺族は「被害者に最後の言葉を与えることができたと思っている」と話している。このことから、遺族から見ても、彼ならこういうだろうと予想できる言動だったようで、最新のAI技術は「彼らしさ」を再現できていたようである。このニュースは「死者の復活」として話題になった(注)。
注:「射殺されたアリゾナ州の男性、裁判で被害者として意見陳述 AIで動画生成」BBS JAPAN 2025年5月8日
米国・中国で広がる「死者との対話」サービスの実態
この「死者の復活」だが、アメリカや中国などでは生成AIに故人の画像や声などを学習させ「復活」した死者との対話を提供するサービスが実在する。
ある企業は亡くなった女性の葬儀で、AIで復活させた女性と参列者が対話できるサービスを提供した。また別の企業は、生前にインタビュー収録しておき、その人が亡くなった後で、その人と対話ができるサービスを提供している。韓国では死者をAIで復活させるスタートアップ企業が、病気で亡くなった6歳の女の子をAIで復活させ、母親と再会させるドキュメンタリーを制作。台湾でも有名ミュージシャンが22歳の娘を、生前の音声や画像を使ってAIで復活させたとして話題になった(注)。
これらのサービスに遺族を悲嘆から救う効果があることは十分理解できる。問題はそれが「再現」ではなく「復活」とされることである。
注:山田敏弘「生成AIで死者を“復活”させるビジネスは人を救うのか 指摘される懸念とは?」ITmediaビジネスONLINE 2024年4月47日
物理学者ティプラーの予言 超未来における完全なる死者の復活
写真や動画、ビデオレターなどとの違いは、「彼ら」が仮想空間から私たちと、その人らしい、その人なら言いそうなことを的確に交えた会話ができることである。今後AI技術が発展していけば、その学習精度はさらに上がっていくだろう。窮まってしまえば「その人」と変わりなくなってしまうのではないだろうか。まさに「死者の復活」と呼べるかもしれない。
物理学者フランク・ティプラーは遠い未来における「死者の復活」を予言した。これは超未来ではデジタル空間において過去のすべての人間の記憶・人格・体験を完全に再構成する技術が可能になると予想したもの。これにより死者はデジタル仮想空間内で再び「復活」するという。ティプラーはこの再構築された「死者」は現段階でのAIのような記録の再生ではなく、意識を持った完全なる死者の復活であると明言している。ティプラーの言う未来は技術の最終段階にまで行き着く超未来である。その技術をもってすれば、ある人物の例えば、生後1325日目の12時35分21秒の記録までも正確に記録、再生される。その一生分の記録、脳内配置、細胞の数、思考パターンに至るまで、その人のすべての要素を再現、再構成できる。そして、その予言は超未来を待つことなく実現しようとしている。心や意識、感情といった内的体験が、脳内信号によるものに過ぎないとしたら、超未来シミュレーションによる「復活」は可能ということになる(注)。
注:拙稿「シミュレーション仮説と不死の物理学」
それは本当に「復活」なのか?拭えない疑問と心の壁
ここまで読んでも多くの人は、それは「死者の復活」と呼べるのかと疑問を持つのではないだろうか。ほとんどの人は、どれだけ技術が発達しても、いかに故人の情報を集めて再構成しても、それはその人ではない。あくまでシミュレーションに過ぎないというだろう。だがそう言える根拠は何か。ティプラーの言う完全なる超未来シミュレーションが実現したとしたら。これは「心」とは「意識」とは何かという超難問である。
哲学的ゾンビ(philosophical zombie)という思考実験がある。外見も言動もまったく普通の人間だが、内的な意識経験が無い存在である。「彼」はケガをすれば「痛い」と言い、顔をしかめて部位を抑える。だが私たちが感じる、あの「痛み」は存在しない。私たちが「痛い」と言う直前に感じる、「クオリア」と呼ばれる「あの感じ」。哲学的ゾンビにはこの内的体験は存在せず、ケガをする→痛みを感じる言動を起こす、という流れだけなのである。だが、実際に完全シミュレーションによる完全体哲学的ゾンビが目の前に現れた場合、私たちに本物の人間と哲学的ゾンビの区別はつくのだろうか。
論理行動主義哲学という考え方によれば、心や意識とは行動のことである。「彼は優しい」とは、「彼が優しい振る舞いをする」という意味に他ならない。私たちは優しいと思わせる何らかの行動を見て「彼」を優しいと思うようになるからだ。この立場では「心」「意識」という内的な現象を想定する意味はないとしている。私たちは他人の「心」を見ることはできない。その人の言葉や振る舞いをみて、その人の人格を判断するしかない。そうである以上、ゾンビと人間の区別はつかないことになる。そのような完全体でなくても、既に現在、そうとは知らず「実はAI」と話している事実はあると思われる。
哲学的ゾンビは内的体験という現象が存在することが前提となっている。内的体験がないからゾンビなのだ。だがその内的体験とは、「心」「意識」「クオリア(〇〇の感じ)」とは、一体なんなのか。霊魂のようなものか。もしが脳が作っている物質なら、人間は機械と変わらないことになる。機械ならどんな精巧なものでもいつかは作ることができる。内的体験の存在が「死者の復活」を決めるだろう。
AIによる「復活」 人間の根源的な問いと向き合う
AIによる「死者の復活」。私たちが「心」「魂」「意識」「感情」…などと呼ぶ内的体験が存在するのなら、どこまでいってもそれは「再現」に過ぎず、「死者の復活」はないと言っていいだろう。そしてそうあるべきだと考える。死んだ人間はこの世には帰らない。愛する人と別れる苦しみを、仏教は「愛別離苦」と呼び、避けられない業だと説く。逆に言えばだからこそ懸命に愛するのではないだろうか。とはいえ、AIによる「復活」に救われる人の気持ちも否定できない。科学、哲学・宗教を巻き込むこの問題に迷い続けることが、AIならぬ人間の証なのかもしれない。