葬儀の形が多様な時代にあっても、日本の葬儀はまだまだ仏式が中心といえるし、盆や墓参りが完全に消えるとは考えにくい。特に信心を持っていない人に日本の宗教は何かと聞かれれば、ほぼ仏教と答えるのではないだろうか。その日本仏教で最初の僧が女性、というより年端も行かない少女であったことを知る人は少ない。

外来の神と日本古来の神々
日本に仏教が伝来したのは日本書紀によれば、欽明天皇の御代、551年10月ということになっている。百済の聖明王より釈迦仏の金剛像一体と経論(経典)、祭具がもたらされたとある。金剛像のインパクトは相当なものだったようだ。仏像はこれまでの素朴な自然宗教だった日本の神々とはまったく違うものだった。欽明帝は近臣に、この外来の「神」を祀るものか意見を聞いた。文化・貿易の蘇我氏は賛成し、神事・軍事の物部氏とその分家中臣氏は反対した。蘇我稲目が「外国が敬ってるのだから日本も敬おう」と主張すると、物部尾興と中臣鎌子は「外国の神など崇めては古来よりの神々の怒りを買う」と反論した。欽明帝は稲目に仏像らを預けることにした。ひとまず様子を見るといったところだ。優柔不断と言えなくもないが、この黄金像には、肯定的であれ否定的であれ、何かを感じざるを得なかったようだ。
仏法僧の中でも、特に蘇我氏が求めた僧の存在
蘇我氏は仏教の3大要素「仏・法・僧」のうち、僧を補う必要があった。仏は仏そのもの、法は仏法、僧は僧侶である。仏の写しである仏像と教えを説く経典があっても、仏を供養し経典を読み明かす僧侶がいなくては意味がない。この「供養」が大切である。僧は教えを説くだけの教師ではなく、仏と通じ仏を祀る力を持つ、巫女的な存在だった。そしてまさに巫女というにふさわしい人物が日本人初の出家者として登場する。
僅か11歳で日本人初の僧侶となった少女・善信尼
敏達天皇の御代、584年蘇我馬子は、播磨国にいた高句麗の僧・恵便を師として、渡来人・司馬達等(しばだっと)の娘、鞍作嶋(くらつくりのしま)を出家させた。この嶋こそ、日本人初の出家者、善信尼(574〜?)である。彼女の甥に仏師・鞍作鳥(くらつくりのとり)がいる。受験生なら「法隆寺金堂釈迦三尊像」の作者「止利仏師」の方が通りがいいだろうか。そして善信尼、驚くべきは当時まだ11歳の少女だった。さらに恵善尼、善蔵尼の2人が続き、馬子は3人を厚く敬い、日本初の法会を開くなどした。
崇仏論争が激化し苛烈な弾圧を受けた善信尼
他方、蘇我氏と物部氏の崇仏論争は激しくなる一方だった。585年疫病が流行り、物部守屋らが敏達帝に、病の原因は仏教に対する神々の怒りであると申し出ると仏教弾圧の詔が出された。守屋らは馬子に善信尼らの引き渡しを要求する。馬子も勅命には逆らえない。善信尼らは公衆の面前で袈裟を剥がされ、鞭打ちの刑に処された。現代ならまだ小学5、6年生の少女たちであったことを考えれば、あまりに苛烈な仕打ちである。馬子は自分の病の治癒のため天皇に直訴し、馬子が個人的信仰に留めるとして3人は解放された。小学生の女児がそのような目に合えば、恐怖のあまり尼などやめて還俗してもおかしくない。しかし、善信尼は馬子に「受戒」を求めての百済渡航を願い出た。言うまでもなく当時の海外渡航は命がけの決死行である。最澄と空海が唐に渡った際の船は4隻のうち2隻が沈没している。
受戒を求めて百済渡航を願い出た善信尼
受戒とは正式な師僧から戒律を授かることで、受戒をもって正式な仏僧となれる。受戒がなければ僧を名乗っているだけに過ぎないが、日本に戒を授ける僧はいない。善信尼たちは588年百済に渡航し学僧として590年帰国した。しかし日本書紀には善信尼たちは百済で仏教を学んだと記されているのみで、戒律を受けたとは明確にされていない。後に鑑真が受戒のために来日したのは真の意味で仏教を日本に伝えるためである。つまり鑑真来日まで日本には戒を授ける僧がいなかったことになる。善信尼たちの渡航は当時手探り状態だった日本において仏教の正確な知識を学び持ち帰ることが主たる目的だったのではないだろうか。彼女たちは帰国後、桜井寺(奈良県明日香村)に住み仏教の興隆に尽力した。桜井寺は蘇我稲目が欽明帝から預かった百済の仏像のために建立したもので、推古天皇の時代に移転して「豊浦寺」となった。平安時代には廃寺同然となるも、江戸時代に向原寺として再建され現在に至る(浄土真宗本願寺派)。境内には豊浦寺跡がありかろうじて当時の面影が偲べる。善信尼たちの後半生はわかっていない。没年も不明である。
わずかな記録と大きな足跡を残した少女僧侶たちの情熱
日本最初の僧であるにも関わらず、善信尼たちの記録は実に少ない。だが、11歳で出家、12歳で苛烈な拷問に遭うも、15歳で命がけの渡航に臨んだ。この史実だけでも驚嘆に価する。最初の出家こそ親の命だったのかもしれないが、その後の行動の原動力は、仏法への純粋な情熱だったと思えてならない。少女たちの足跡は小さかっただろう。しかしその情熱は日本仏教の歴史に大きな足跡を残したのである。
参考資料
■宇治谷孟「日本書紀(下)全現代語訳」講談社学術文庫(1988)