令和7年こと西暦2025年は「昭和100年」、そして8月15日の終戦記念日をもって、「戦後80年」でもある。偶然とはいえ、実に重みある「区切り」の年だ。

原宿の東郷神社 府中の東郷寺 福岡の東郷神社 それぞれの由来

福岡県福津(ふくつ)市の大峰山(おおみねやま)自然公園内に、東郷平八郎を祀った東郷神社がある。昭和9(1934)年、地元・津屋崎(つやざき)出身の獣医師だった安倍正弘(1887〜1971)が日本海海戦を勝利に導いた東郷平八郎を顕彰するため、自費で建てたものである。「東郷平八郎を祀った神社」が「福岡県」とは、どういうことなのか?それに充当する神社といえば、東京都渋谷区神宮前、原宿駅を背にして竹下通りの雑踏を進み、途中で左に1本入った静かなところに鎮座する神社ではないのか?ちなみに東京都府中市には、昭和14(1939)年に開創された、日蓮宗の聖将山東郷寺が所在する。
創建のいわれについて、見てみよう。まず、原宿の東郷神社から。昭和9(1934)年の東郷の死後、営まれた国葬の際、日比谷の斎場から多摩霊園へと向かう沿道に、180万人以上の人々が詰めかけたほど、多くの国民に慕われていた。しかもその「熱」は収まらず、全国各地から、生前の東郷の栄誉を顕彰するための神社建立の要望や献金が海軍省に届けられていた。そこで当時、海軍大臣だった大角岑生(おおすみみねお、1876〜1941)が各方面に働きかけ、財団法人東郷元帥記念会を設立した。神社の場所として、明治神宮にほど近い、旧鳥取藩主池田公爵邸を選んだ。1937(昭和12)年の地鎮祭を経て、3年後の1940(昭和15)年、日本海海戦に大勝利を収めた日を記念した海軍記念日の5月27日に、「東郷平八郎命」を祭神とする神社の鎮座祭が営まれたのだ。
次に府中の東郷寺だが、亡くなるまでの東郷と深い関わりを有していた、旧唐津藩主の小笠原家の流れを汲む、海軍中将で子爵の小笠原長生(ながなり、1867〜1958)が主導する形で、生前、東郷が日蓮(1222〜1282)への信仰心を有していたことから、約5000坪にも及ぶ、東郷家の農園・別荘だった場所に、「日蓮宗」の寺の創建が実現した。開基(かいき。仏寺の創立者。在家の者)は東郷平八郎、開山(かいざん。仏寺の創立者。僧侶)は日蓮宗管長の酒井日愼(池上本門寺74世)を迎え、誕生した。山門の建築には、築地本願寺(1939年)などを建てた、日本を代表する著名な建築家のひとりである伊東忠太(1867〜1954)が携わった。寺が建立されるに至ったのは、生前の東郷が常々、日清・日露戦争において亡くなった、多くの無名兵士の供養を願っていたことによる。それを叶えるべく、東郷は生前、「東郷寺」と記した墨書を残していたのだ。宗教社会学者の隈元正樹(1981〜)によると、東郷寺では戦前は東郷の顕彰と戦勝祈願、戦後は戦没者慰霊が中心になったという。
福岡の「東郷神社」の建立は、上記の2寺社よりもいち早く行われた。それは何故か。ひとえに、「地方」ゆえに目立たない。人が多く行き交う「場所」としての規模も、「帝都東京」よりは断然狭い。それゆえに、大角岑生や小笠原長生などの「中央の人間」からの「協力」を募ることが、人脈的にも、そして金銭面でも難しい側面があるのは否めない。だが、あれこれ「根回し」が必要な、「人間関係のしがらみ」などが「中央」ほど、「地方」は複雑・混迷を極めていない。「機動力」や「小回りが効く」ことから、東郷を顕彰する施設である神社建立の実現が叶いやすかったのではないだろうか。
東郷平八郎の偉業や人となり
そもそも東郷平八郎は、薩摩藩士・東郷吉左衛門の4男として鹿児島城下の加治屋町(かじやちょう。現・鹿児島県鹿児島市)に生まれた。薩英戦争(1862年)、戊辰戦争(1868〜1869年)では薩摩藩の海軍に属し、軍艦・春日丸の三等士官として、宮古湾・函館沖海戦で活躍した。1871(明治4)年、英国留学に出発。7年間、商船学校であるテムズ航海訓練学校で、航海術・軍人としての心得・国際法などを修めた。その後の東郷は、日露戦争時の1905(明治38)年5月27日に、1703(元禄16)年に編成され、その名をヨーロッパ中に轟かせていたロシアのバルチック艦隊を、九州北部の対馬東方沖で展開した日本海海戦において、旗艦・三笠から陣頭指揮を取った。そこで、まず三笠が敵の目前で自ら大きく進路を変える。それに敷島・富士・朝日・春日・日進…などが延々と続く。そうすることで、相手方の進路を塞ぎ、戦艦の横腹を見せながら、砲撃戦に持っていったのだ。この「東郷ターン」とも称される「丁字(ていじ)戦法」によって、ロシアを打ち破ったこと。しかも砲弾が飛び交う中、命の危険を顧みず、艦橋に立ち続けていたこと。そして勝利で終えた連合艦隊解散式において、名参謀・秋山真之(さねゆき、1868〜1918)が起草したという「連合艦隊解散ノ辞」における「勝って兜の緒を締めよ」という締めの言葉に見えるように、大勝利に舞い上がることはなかった。このことは『東郷元帥景仰録』(1935年)で、当時の海軍大将・山本英輔(えいすけ、1876〜1962)が、東郷のことを「黙々として余り多くを語らず、常に少し俯向加減に謙譲の態度、晴れても曇っても一向関せざるものの如く、悠々として迫らざる点、如何にも従容たりだと考えた」と書き記していることからもわかる。
偉人が祀られる理由
ところで、そのような東郷平八郎を祀る神社が何故、「福岡」に所在するのだろうか。もちろん、過去の偉人を祭神としてお祀りする神社、或いは、宗教学者の佐藤弘夫(1953〜)が言う、歴史上実在した人物がカミになるという現象こと「ヒトガミ(人神)」は、日本において、決して珍しいものではない。その源流として、平安時代(794〜1185)の、例えば早良(さわら)親王(750?〜785)、伊予(いよ)親王(783?〜807)、菅原道真(845〜903)など、非業の死を遂げた高位の者が「御霊(ごりょう)」となって、宮廷や政(まつりごと)に対して、多くの災いをもたらした。それを鎮めるために、「神」として神社に祀られた。時が経つにつれ、人が恐れる「祟り神」ではなくなっていく。例えば菅原道真であれば、「学問の神様」という捉えられ方など、人々に多くの恩恵をもたらす存在へと変容していった。
上記の例とは異なるが、国を統べた偉人、例えば豊臣秀吉(1537〜1598)は1599(慶長4)年に、「豊国乃(とよくにの)大明神」として、現在の京都市東山区の豊国(とよくに)神社に。徳川家康(1543〜1616)もまた、1616(元和2)年に亡くなった際、東照(とうしょう)大権現として、静岡県静岡市と栃木県日光市の東照宮に祀られた。
更に江戸時代(1603〜1868)になると、各地の藩主たちのみならず、各藩における苛烈な支配に苦しむ農民たちを救い、時に自らの命を落とした人々が「義民(ぎみん)」と顕彰され、地域の守り神になっていった。そうした人物たちの中で最も有名な人物のひとりが、千葉県成田市に現在も存在する「宗吾(そうご)霊堂」に祀られた佐倉惣五郎(そうごろう。生没年不明。1653死亡か)だ。
軍人が祀られる理由
そして幕末期(1853〜1868)に至ると、東郷も従軍した戊辰戦争など、国中の大混乱によって、多くの「官軍兵士」たちが亡くなった。そうした人々を祀るささやかな、「忠魂社」「招魂社」「護国社」…などが全国各地に建立された。神社の片隅に文字が朽ちた石碑だけが今も残るところもあれば、靖国神社のように、「東京招魂社」だったものが大規模化したところもある。或いは、宅地開発やお祀りを行う後継者がいないということで、更地になってしまったところも少なくない。以上から、海軍大将・東郷平八郎を祀る「東郷神社」は、江戸期の義民たちや、国のために命を捧げた人々を祀った小社のなど発展形と言えるのではないだろうか。
祀られる「理由」は以上のことから理解できる。では、東郷は「薩摩隼人(さつまはやと)」であるのに、何故、ふるさとから遠く離れた福岡県内に東郷神社があるのか。それは神社が建てられた「大峰山」という「場所のありよう」、そして建造者の安倍正弘がそこで生まれ、暮らしていたことによる。
なぜ福岡に東郷神社があるのか?東郷神社の建造者である安倍正弘とは?

日本海海戦は九州北西部の「対馬東方沖」で戦われた。しかし大激戦だったことから、「神宿る島」として2017(平成29)年、世界遺産に登録された福岡県最北端の島・沖ノ島(おきのしま。福岡県宗像市)はもちろんのこと、県内の遠賀川(おんががわ)河口部、そして響灘(ひびきなだ)に面している遠賀郡の町々や、内陸部でも鞍手(くらて)郡の村々からでさえ、大砲の炎が空を赤く染めていたのが見えていたという。そうした中、1924(大正13)年に橋が架かるまで「陸の孤島」であった「渡(わたり)半島」の南側に位置する、114mの大峰山(おおみねやま)に登り、戦いの様子を眺めようとしていたひとりの男がいた。それが、当時18歳の安倍だった。残念なことに、砲撃の音はするものの、立ち上る煙が物凄く、日本とロシア、どちらが勝ったかはっきりわからなかったという。また、山頂に置かれていた陸軍の監視哨に詰めていた哨兵たちも安倍同様、砲声を耳にしながら、勝つか負けるか、ハラハラしていた。11回にも及んだという交戦は、戦死者約500人、撃沈19隻、捕虜6106人、抑留2隻という犠牲を払い、最終的にロシア側の降伏で幕を下ろした。
後に国内外問わず、多くの歴史学者たちから「世界史の一大転換点だった」と評される日露戦争を間近で見た安倍は、軍人になることを志した。しかし、身長が足りなかった。そこで子どもの頃から好きだった馬を扱う、陸軍獣医官を目指すことにした。東京で獣医学を修めた後、熊本の農業学校で教鞭をとっていたが、3年半でふるさとに戻り、獣医師並びに、馬の蹄(ひずめ)に蹄鉄(ていてつ)を打つ、装蹄師(そうていし)として生きることを決めた。
東郷公園を経て東郷神社が完成
34歳になった1920(大正9)年には、津屋崎町(つやざきまち)町会議員となった。そこで安倍は、日本海海戦の記念事業を行うことを決意した。当初はもちろんたったひとりの船出だったが、地元の青年団、小中学生や教員たちの募金や協力に加え、貝島炭礦(かいじまたんこう)社長の貝島太市(たいち。1881〜1966)、出光(いでみつ)興産を興した出光佐三(さぞう。1885〜1981)など、福岡財界の有力者たちの賛同を得て、「日本海海戦記念保存会」を設立することになる。
それから2年後に大峰山を整地し、「東郷公園」がつくられた。それで安倍は満足しなかった。更にその2年後の1924(大正13)年、旧軍艦・沖ノ島を海軍から払い下げてもらうこととなり、津屋崎港に据えつけるよう尽力した。しかもそれに加え、実際に海戦で使われた大砲の一部や砲弾などと組み合わせて、東郷が陣頭指揮を取った戦艦・三笠の艦橋(司令塔)を模した大がかりな建造物を大峰山の山頂に建造することにした。裏側には、海側に射程を向けた実物さながらの大砲とその砲台がある。しかもその正面には、東郷自身の揮毫であり、尚且つその「意」を汲んだ言葉、すなわち「戦勝」という文言を一切用いない、「日本海海戦祈念碑」と記された、11mにも及ぶ、大石碑が建てられた。
残念なことに東郷は除幕式をおよそ1ヶ月前に控えた1934(昭和9年)5月30日に、亡くなってしまった。同年6月5日に国葬が営まれた際、安倍はそれに参列した。その年の12月には、東郷の遺品や指揮刀、海軍の英雄たちの揮毫、そして魚雷などを展示する記念館を公園内に建てた。また、かねて東郷の遺髪を入手していた安倍は、その翌年の1935(昭和10)年、東郷の一周忌に際し、後の「東郷神社」へと発展する、「東郷元帥御遺髪奉安殿」を建立し、お祀りした。またその夏に安倍は、東郷の甥・吉太郎(きちたろう、1867〜1942)を訪ねた。そこで、最晩年の東郷が過ごした静岡県熱海市の別宅に植えられていた月桂樹やソテツの木を貰い受け、公園内に移植したりもした。
再び忍び寄ってきた戦争の影
そのような東郷公園にも、「戦争」が忍び寄っていた。1937(昭和12)年に始まった日中戦争の影響から、鉄材不足が問題になっていた。軍部より安倍に対して、津屋崎港に係留中の軍艦・沖ノ島を解体し、供出するようにという通達が来た。安倍はそれに従った。それだけで終わらない。戦争は激化する一方だった。安倍や安倍を支援していた地元有力者たちや地域の人々にとっては、東郷公園の整備・開発どころではなくなってしまった。というのも、東郷公園の所在地である大峰山山頂は、玄界灘(げんかいなだ)はもちろんのこと、九州北部に広がる東西南北の海が一望できる。それは「観光」や「旅情を誘う」、実に見晴らしのいい場所であるばかりはなかった。軍事的にも最重要拠点のひとつだったのだ。安倍は「この辺り」が「日本外寇(がいこう)史の縮図」(1935年)の根拠として、以下を挙げている。
1.神功(じんぐう)皇后(生没年不明。169〜269か)の三韓征伐(時期不明。200年以降か)における勝利の凱旋時に上陸したことから名づけられたという「勝島(かつしま)」「勝浦潟(かつらがた)」がある。
2.「神の島」と古くから称されてきた「沖ノ島」そして、日本最古の神社のひとつに数えられる宗像(むなかた)大社が所在する。
3.かつて異民族が攻めてきた折、大己貴命(オオナムチノミコト)と宗像の女神が神威をもって、追い払った。或いは、神功皇后の楯をお納めしているという言い伝えもある楯崎(たてざき)神社が所在する。また、この近くには、桓武天皇(737〜806)の在位(781〜806)当時、名僧・最澄(767〜822)が渡唐を前にして、自ら刻んだと言われる薬師如来像を安置する楯崎寺もあった。
4.唐より平重盛(しげもり、1138〜1179)に贈られた鐘が沈んだと伝わる「鐘崎(かねさき)」の港がある。
5.1274年の文永の役、1281年の弘安の役と、2回に及ぶ元寇の舞台であった壱岐・対馬、蒙古軍が上陸した博多湾(志賀島(しかのしま))は大峰山から見て、玄界灘を南下したところである。
このように、異国への出発地、異国からの帰着地、そして異国からの「侵略」がなされたような、歴史的に重要な「場所」であるがゆえに、海軍と陸軍の監視哨(しょう。監視を行うところ)が再び、設けられた。そして公園内の施設や建物はすべて、福岡県下の中学生のための海洋訓練場になった。戦争末期になると、訓練を受けるべき生徒たちは皆、勤労動員に駆り出されていたため、「自然消滅」してしまったものの、公園の周囲に塹壕や防空壕が張り巡らされ、「敵の本土決戦」に備えるという、東郷の顕彰どころか、明日をも知れぬ、実に緊迫した雰囲気が漂っていたという。
戦後、焼却没収の回避に成功した安倍正弘
1945(昭和20)年8月15日、日本は終戦を迎えた。悲しみや混乱の中、戦争に関係のあるすべてのものが、焼却・没収の憂き目に遭うことになる。東郷公園にしつらえられていた戦艦・三笠の主砲や大砲がことごとく解体され、八幡製鐵所(現・北九州市八幡東区)の溶鉱炉に投入された。そこで安倍は、せめて三笠の主砲の一片でも残したいと強く思った。兵器処理委員会に掛け合い、およそ1m半ぐらいを地中に埋めて、保存した。その上、津屋崎町からも、公園に設置されている、東郷の手による「日本海海戦祈念碑」を取り壊すように、とも命じられた。そこで安倍は進駐軍の通訳と、直接交渉した。その熱意が進駐軍側に通じたのか、それとも、イギリス留学時代には、クラスメートから“to go” と揶揄されていたものの、時を経て、あのバルチック艦隊を撃破した名将として、国境を超えて世界中の「軍人たち」にリスペクト、或いは注視・研究されていた“Admiral Togo”を顕彰するものであって、1931(昭和6)年9月の柳条湖(りゅうじょうこ)事件から、1945(昭和20)年9月の降伏文書調印までの「あの戦争」における、日本軍によるアジア諸国への侵略や、欧米列強への攻撃、そして愛国心鼓舞のための「シンボル」ではないということが理解されたのか。いずれにせよ石碑は無事、大峰山に温存されることとなる。その後の朝鮮戦争(1950〜1953)当時、「ここ」に今度は米軍の監視哨が設けられた。その際も、「取り壊し」の命令が下されることはなかった。とはいえ、東郷公演記念事業を行なっていた財団法人は解散することとなる。また、安倍の孤軍奮闘が始まった。
84歳で亡くなった安倍正弘
焼け跡闇市から立ち上がり、日本が復興を遂げ、高度経済成長という「上昇気流」に乗りつつあった1965(昭和40)年、この年は日本海海戦60周年だった。安倍はまだ、諦めてはいなかった。東郷神社の改築並びに宝物殿の再建を目指した。2年後に、東郷神社を宗教法人に昇格させるため、私有地およそ4400坪を社地として献納し、神社本庁に出願した。1968(昭和43)年1月、許可が下りた。そこで安倍は整備工事に際し、芦屋(あしや)航空自衛隊に助力を願ったところ、第三科学校の生徒たちが「校外演習を行う」という形で、土木工事が行われた。その結果、同年5月27日の海軍記念日には、地鎮祭を挙行する運びとなった。しかも、九州電力社長の瓦林潔(かわらばやしきよし、1903〜1990)、衆議院議員や福岡県知事だった杉本勝次(かつじ、1895〜1987)など、福岡県内の政財界の大物の支援を再び受けることとなり、1971(昭和46)年に無事、整備復興を叶えることができた。残念なことに病気療養中であった安倍は、落成式に出席できなかった。そしてその年の7月、安倍は84歳の生涯を閉じた。
参考資料
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■小笠原長生(編著)『聖将東郷全伝』第2巻 1940/1987年 国書刊行会
■中野毅「占領と日本宗教制度の改革 -戦後日本の世俗化過程の一考察」『東洋学術研究』第26巻 1987年(174-193頁)東洋学術研究
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■「企画展『戦後80年 昭和100年 報道写真を読む』 『1億人の昭和史』から『毎日戦中写真アーカイブ』へ」『ニュースパーク 日本新聞博物館』2025年4月26日〜8月31日
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■「山の上に巨大な戦艦⁈ 日本海海戦ゆかりのスポット『東郷公園』|福岡県福津市」『Mediall』2023年7月12日
■「追悼 〜2024年に亡くなった著名人を偲ぶ〜」『Neowing』2024年12月12日
■「九州発 西部本社編集局 東郷平八郎をまつる福岡県の『東郷神社』例祭、日露の戦没者悼む…戦闘海域を遠望する日本海海戦祈念碑前で」『讀賣新聞オンライン』2025年5月27日
■『NHK 戦争を伝えるミュージアム』
■「元寇の遺産を巡る 鎌倉武士の抗戦〜海に眠る蒙古襲来の遺跡」『ながさき旅ネット』
■「地元の人々が愛するディープな福津 新泉岳寺」『DEEP福津』
■『勝運災厄摩利支神社ホームページ 楯崎神社ホームページ』