筆者が前回扱った「パスカルの賭け」は神が存在するかしないか、どちらに賭けた方が得であるかの議論だった。しかしキリスト教の立場からの前提、展開は日本人には馴染みが薄い。そこで「賭け」の発想のみを拝借して、我々は死後どうなるのかついて考えてみた。
死後生への賭け
人は死んだ後どうなるのか。永遠のテーマである。生きている限り死んでないのだからわかるはずがない。あらゆる宗教はこの疑問を解決するために、神、霊、死後の世界などを説いた。しかし結局のところわからないのだから、パスカルの賭けに戻る。何に賭けるのか。ほとんどの宗教では、死後も意識が滅びないこと(死後生)、神(仏)と、死後の世界(天国、極楽など)の存在を提示する。だがこの3つがすべて揃わなければならない必然性はあるのだろうか。いくつかの組み合わせが考えられる。
A.神だけが存在する
神は存在するが、死後の魂も死後の世界も存在しない。
神は何らかの目的で人間を創造したが、魂や霊魂などのようなものは創らず、肉体の死を持ってその人間の最後とする。もちろん魂の行き先である死後世界も存在しない。人間がロボットを作るように、神が人間をこのように創造してもおかしくない。宇宙と自然法則を創造したのみとする理神論もこれに近いかもしれない。このパターンでは我々にとって死後は「無」と同様である。自分がいないのだから、神がいようがいまいが同じことである。
B.神と死後生のみ存在
神は存在し、死後の意識も存続するが、死後の世界は存在しない。
いわゆる「梵我一如」。スピリチュアルの世界で好まれる「宇宙と一体になる」「根源に還る」などの表現がこれにあたる。「火の鳥」のコスモゾーンである。大いなる存在とひとつになるという考えは、死後の人格的な霊魂、つまり自我の消滅と同様である。この想定は天国地獄などの存在は「おとぎ話」にしか聞こえない現代人には受け入れやすいかもしれない。しかし死後生の存続を個人の意識とするなら最終的にはAに近くなる。
C. 死後世界と死後生のみ存在
死後は意識が存続し死後世界へ旅立つ。しかし死後世界に神はいない。
死後の意識を導く大いなる存在はいないが、死後の意識体の受け入れ先はある。唯物論者がこの世の創造主を否定するように、あの世の創造主を否定する見解があってもよいのではないだろうか。この場合、肉体が滅んでも魂はありあの世もある。それならあの世にも社会が形成されている可能性が高い。この想定は死の恐怖や愛する人を失って悲嘆に陥っている人には救いになるが、社会に生きる事に疲れて、この世を去った自殺者などには最悪である。死んでもまた他人がいて社会があるのだから。
D. 死後生だけが存続する
神も死後の世界も存在しないが魂だけは存続する。
死後を「無」以外で語ると大抵は神や死後世界などの宗教的発想になるが、端的に死後も意識があるというだけのパターンもあるのではないか。無神論者、唯物論者は物理法則そのものに「意味」は無いと考える。同様に魂はあるが、そのこと自体に意味は無いこともありうる。つまり「ただあるだけ」である。この想定では他の意識体との交流の有無が重要である。オカルト系の話に、霊魂となった者が誰に話しかけても気づいてくれず、触ろうとしても透けてしまうなどの場面がある。その後は自分で死を悟ったり、霊能者が諭したりして「成仏」するのが定番だ。しかしそのようなプロセスはなく、端的に意識だけが存続するだけだとしたら。また、他の霊魂とはどうか。霊魂同士が交流できる絶対的な保証はない。TLS (Totally Locked-in Syndrome 完全閉じ込め症候群)と同じ状況になるだろう。
この「魂のTLS」はこの世でも実際に起こっているかもしれない。認知症や脳死状態で自我が崩壊しているように見えても、それは脳という車が故障しているだけかもしれない。運転手たる魂は生きているとしたら、「魂のTLS」ということになる。これは最も恐ろしい想定である。これなら「無」の方がましだろう。唯物論的に魂の存続を考えると恐ろしいことになる。やはり死後存続モデルに、宗教的な世界観は必然ということだろうか。
死後モデルを用意しておこう
大雑把ではあるが、神、死後世界、死後意識の3要素について大きく組み合わせてみた。さらに様々な宗教、思想を参考に細かい分類をすれば一冊の本が書けるだろう。こんな面倒臭いことを考えるなら、死んだらおしまいでいいと思わなくもない。しかし筆者は末期宣告をされ、神仏にすがる自分の姿が想像できる。クールに人生を卒業できる人が何人いることか。パスカルが言うように生きることは、来る日に備えて「賭け」に挑むことである。毎日の生活でそんな暇は中々ないかもしれないが、自分なりの死後モデルを用意しておいてはいかがだろう。