人間の命が有限である以上、物質を超える存在への憧憬は絶えることはない。その熱情が爆発したのが大正時代である。大正期は科学と神秘が交錯する時代だった。様々な霊能力者や霊術者が跋扈する心霊ムーブメントの中にあって、最強の霊術団体と呼ばれたのが「太霊道(たいれいどう)」である。しかし現代、太霊道とその創始者、田中守平(1884〜1929)の名を知る者は少ない。
霊術の時代と太霊道
明治政府が推し進めた近代化=科学偏重主義は「脱魔術化」への試みだった。伝統的な祈祷や呪いといった文化は「迷信」として捨てられつつあった。そうした唯物論的な風潮への反発か、大正期前後は心霊研究と霊術家の活動が最も盛んな時代だった。「霊術」とはこの場合、手かざし、気合い、呼吸法などによる民間治癒療法を指す。心霊研究の分野では、日本心霊科学協会創設者の浅野和三郎(1874~1937)、「千里眼事件」で有名な福来友吉(1869〜1952)らが、交霊会や念写実験などを行い霊魂の存在を研究していた。その一方で、神秘行による治癒・治病を追究する「霊術家」たちも活発に行動していた。彼らは独特の呼吸や気合、身体技法により神秘体験を感得し、そうして得た能力で病気や怪我に苦しむ人たちを救った。中には詐欺師、山師もいたが、実際に効果を発揮して支持された者もいた。その代表といえる存在が田中守平と太霊道である。
田中守平と太霊道
田中守平は1884年(明治17年)岐阜県恵那郡武並村(現在の恵那市)に生まれた。10代から憂国の士として活動し天皇に上奏するなどして世間を騒がせた。21歳で恵那山に入り断食修行を行い、全身が躍動し霊的な能力を体得したという。この躍動、不随意的運動現象は「霊動」と呼ばれ、宇宙の根本原理「太霊」との一体へとつながる。そして自身の健診のみならず、医師に見放された者を救う霊的治療能力が得られる、太霊道の神秘行法の中心となった。その後、霊術団体「太霊道」を創立。霊術による治病と、霊術技法の伝授・普及に乗り出した。その勢いは凄まじく、浅野の辣腕による巨大化で(後に離脱)、国すら脅威を抱いた西の大本に並ぶ、東の太霊道とまで言われた。田中のカリスマ性も、大本の出口王仁三郎に匹敵するものだったという。大正9年、田中の郷里、武並村に太霊道総本院が設立された。村には太霊道の信者が大挙して押し寄せ、寒村だった武並村が賑わうようになった。これだけ書くと新興宗教団体が居着き、村ぐるみ乗っ取られてしまったような印象を受ける向きもあるかもしれないが全く違う。本院に足を運ぶ人たちのために郵便局が設立され、国鉄の駅まで誘致された。武並村にとって田中と太霊道は寒村の近代化に大きく貢献した英雄だった。
体験重視
太霊道が大正期最大の霊術団体として成長した要因は体験重視の姿勢と、その体験の容易さであった。講習を受ければほとんどの人が「霊動」と呼ばれる神秘現象を体験することができ、さらに修練を積めば、今で言う気功のような心霊的治療法を身につけられるカリキュラムが整備されていた。現代でも健康法として定着している中国気功法にも太霊道の影響が残されているという。その基本となる身体技法が「霊子顕動法」である。合掌した掌が自発動し、やがては全身にまで及び振動、跳躍にまで至るとされる。これが「霊子」なるものの発動なのか、筋肉の硬直などによる生理現象なのかは本人の解釈次第だが、手順を踏めば、規模はともかく現象自体は実感できるようだ。面白いのは実践にあたって精神統一、精神集中などが禁じられていることである。田中は精神統一などは容易にできるものではなく、しかし実践を深めていくことで自然と精神が統一されていくとする。手軽で誰でも神秘体験が味わえるばかりではなく、自らも霊術家になれる。加えて田中はメディアを駆使して大々的な宣伝を行った。大衆の支持を集めるのは当然だった。
栄枯盛衰
大正10年、威容を誇った恵那山の本院が全焼したことをきっかけに、太霊道は急速に勢いを失う。事態を挽回しようと田中は太霊道の宗教化を進めた。その名称の印象に反して太霊道では、いわゆる霊魂の存在を認めていなかった。「太霊」とは人格的な超越的存在ではなく、宇宙の法則そのものといった概念的な性格が強い。その意味で太霊道は宗教ではなかった。それがライバル、大本教の浅野和三郎との対決がきっかけだったとも言われるが、霊魂の実在を認めるようになるなどし、「太霊」を宗教的存在として信仰対象とした。これには反発する幹部も多く、太霊道は内部から揺らぎ始めた。致命的だったのは田中が46歳という若さで急逝したことである。カリスマの死そのものより、治病を喧伝する団体の長が若死にしてしまったことは大問題である。看板に偽りありどころではない。かくして大正期に隆盛を誇った霊術団体、太霊道は歴史に埋もれた。田中と太霊道に関する研究資料は最盛期の規模と勢いを考えれば信じられないほど少ない。彼らの足跡は極一部の書籍と論文。武並村(恵那市)の郷土史と本院跡地が残されているのみである。郷土史には田中と太霊道の章が盛り込まれており、田中は武並村発展に寄与した偉人として紹介されている。
最後に…
手かざし、気功、〇〇療法など、現代でも宗教や民間療法にすがる人は多い。「溺れる者は藁をも掴む」の藁は、西洋医学では治せない病からの救いを求める声の数だけ存在する。大正期に隆盛した心霊ムーブメント。その一方の心霊研究は自らの死という未来と、大切な人の死という過去からの開放を目指した。対して霊術は現在進行の病気・怪我を治癒するための探究だった。ムーブメントのテーマは「救い」だったのかもしれない。田中と太霊道の名は歴史と記憶から忘却されたが、その影響は現代においても様々な形に変わり展開されている。
参考資料
■井村宏次「霊術家の饗宴」心交社(1984)
■高木一行「奇跡の超能力開発法 太霊道」学習研究社(1988)
■吉永進一「2016年科研報告書 太霊道と精神療法の変容」日本学術振興会(1990)
■恵那市史編纂委員会「恵那市史 通史編 第3巻 2 (近・現代 2 生活・民族・信仰)」恵那市(1991)