トランスヒューマニズムは体に機械を埋め込んだり、DNAを操作するなどして科学と技術の力で不死を実現しようという思想である。人体の機械化によって人間が死ななくなる。これは「超人間主義」と訳されるように、人間を超えて神に近づくことである。SFではよく見受けられる世界だが、荒唐無稽と一蹴するには科学・医療技術の発展は加速度を増している。不死の実現は夢物語とはいえない。
人間と機械の融合
科学技術によって人間の肉体的精神的機能を拡張することは昔から行われている。義肢や人工臓器など、破損、機能停止などした人体の一部を人口物で代替する技術の精度は飛躍的に進化している。最近ではアップルウォッチなどのウェアラブルデバイスの普及が目覚ましい。時計型や指輪型などの「身体に身につけるスマホ」は、さらに機器を体内に埋め込むインプラント技術「インプランタブルデバイス」として確立しつつある。既にスウェーデンの国有鉄道では、体内に埋め込んだマイクロチップを乗車券として使用できるシステムが導入されている。日本でも今年(2022)ペットの迷子防止などのためのマイクロチップを埋め込むことが義務化された。
さらに脳と機械をつなぐ技術「BMI」(ブレイン・マシン・インタフェース)の開発も進んでいる。脳波によってコンピューターを動かしたり、コンピューターから脳に刺激を送って視覚覚や味覚等を与えることができる技術・機器の総称である。この研究にはイーロン・マスク氏も参画している。このような科学技術の超進化が順調に続けば、人体の機械化、サイボーグ化は夢ではないどころか、むしろ必然的な帰結と思われる。人体が交換可能な機械となればそれ不死の実現ということになる。
またトランスヒューマニズムは、科学の超進化が機械に労働をさせて人間は余暇を楽しむ「不老」ならぬ「不労」社会をもたらすとも実現すると予言している。人間は死、病気、障害、さらには労働からも開放されるというのだ。
死を拒否する思想
トランスヒューマニズムは「死」を否定する。無神論、唯物論である。彼らは霊魂の不滅も死後の世界も信じていない。死は生命に対する侮辱であるとさえいう。だからこそ科学の力で死を克服しようとしている。しかしその背後にはキリスト教の思想が見え隠れする。キリスト教は死を拒否する宗教だからだ。イエス・キリストは人類唯一の「復活」した人物であり「死を滅ぼした」とされる。
しかしもはや現代人は聖書の説く神の存在や死後の世界を信じることはできない。そのような人達にとって死は「無」である。唯物論者、無神論者という響きにはクールなものが感じられるが、神や死後生は信じられないけれど、無になるのは怖い人もいる。信仰の厚い人もいざとなればどうなるかわからない。彼らは考える。死後の世界が無いなら死ななければよいのだ。我々には科学があるというわけである。
未来に託す「宗教」
トランスヒューマニズムの提示する世界はサイボーグ化を超え、精神そのものにまで拡大する。脳の情報を完全にコピーしてコンピューターに移植することで不死が実現するというのである。しかしそれは本当に自分と言えるのか。まったく自分と同じクローンが目の前にいるとして、こっちがいるから自分は死んでも構わないなどと思えるだろうか。
それでも数理物理学者 フランク・ティプラーは、精神転送の可能性を未来人に託す。ティプラーは遠い未来、我々の意識データは復旧され「復活」すると予測する。究極レベルの知性にまで到達した未来の知性は、宇宙の全生命のシミュレーションを実行し、超未来におけるスーパーコンピューター内において我々は復活するという。また、クライオニクス(人体冷凍保存技術)を実行している人たちもいる。しかし現在の技術では遠い未来に解凍されて復活できるかは未知数だ。これは賭けである。結局は「信じる」ことに尽きる。
現代はもちろん近未来に至っても不死の実現は難しいと思われる。仮に遠い未来に不死が実現するとしても、現代でトランスヒューマニズムを唱える人たちは確実に死ぬ。精神転送にしろクライオニクスにしろ、未来に託して死ぬことになる。つまり未来への信仰である。キリスト教には「死者の復活」の概念がある。トランスヒューマニズムも形を変えた、ある意味宗教であるといえるだろう。
最後に…
科学による不死の実現は神への冒涜、人間の傲慢だろうか。しかし人間は明らかに他の動物とは異なるのも確かだ。ベルクソンは人間を人工的な物や道具を作る「工作人」(homo faber)と定義した。トランスヒューマニズムと深い関わりのあるロシア・コスミズムの研究家、スヴェトラーナ・セミョーノヴァは言う。
「それは人間の能力と可能性を拡大し、言ってみれば人間の器官を延長し、人間に新しい器官を与えてくれる。自動車は速い足であり、顕微鏡と望遠鏡は信じられないほど強化された目であり、飛行機やロケットは存在しない翼なのだ」(「ロシアの宇宙精神」)
人間の身体は道具によって強化・延長されてきたのである。
何故人間にはこのように進化する能力が備わっているのか。人間は自らの意思で脳を進化させたわけではない。これも神の計画なのかもしれない。しかし「死なない」ことが本当に幸せなのか答えはまだ出ていない。
参考資料
■日本トランスヒューマニズム協会 ホームページ
■スヴェトラーナ・セミョーノヴァ著/西中村浩訳「ロシアの宇宙精神」せりか書房(1997)
■拙稿「シミュレーション仮説と不死の物理学」
■拙稿「死とどう向き合うかを説く仏教と死を拒否するキリスト教」