近代看護の母・ナイチンゲール。野戦病院での献身的な看護や、劣悪な環境を改善した行動力などから「クリミアの天使」と呼ばれ今なお尊敬の念を集めている。しかし彼女の思想・行動の背景には神への深い信仰と神秘体験があったことは知っておくべき事実である。
ナイチンゲールと修道女たち
看護学校の「戴帽式」ではナイチンゲールの教えを基に作成された「ナイチンゲール誓詞」を唱和する。学生たちが手にするキャンドルの灯は、クリミア戦争の際にランプの灯を手に夜中の病院を巡回したというナイチンゲールの献身的な看護の精神を表している。
フローレンス・ナイチンゲール(1820〜1910)は、イギリスの裕福な家庭で生まれ育った。19世紀のイギリスは格差社会であり、移住者が住み着いた地域は劣悪な環境で疫病が蔓延していた。しかし貧しい人たちは病院などは行けず待っているのは死のみであった。こうした人たちの救済運動に携わったのが、キリスト教の修道女たちである。カトリックの修道院や、プロテスタントの奉仕団は、貧困地域に赴き献身的な看護などに従事した。そうした社会運動に感銘を受けたナイチンゲールも看護の道を進むことを決意するが家族は強く反対した。中世の日本がそうであったように、病気を患った人たちは汚れた存在として忌避され、病人や怪我人の世話をする看護師などは賤しい仕事だとされていたのである。家族にも一理はある。現代のように医学が発達していない当時、不衛生な貧困地域の病人の看護などは危険極まりないことだった。だが、自分の健康や命そのものの危険を犯してまで見ず知らずの、病人の看護に向かう彼女たちには信仰の力があった。自身が敬虔なクリスチャンであるナイチンゲールは修道女たちの信仰の力に深く感じ入ったのである。
クリミアの天使
ナイチンゲールは近代看護学の母と言われる。当時看護師は医師の召使いのような扱いを受けていた。ナイチンゲールは医療と同等の独立した分野としての看護学を確立したのである。彼女の名を知らしめたのが、ロシア軍と欧州同盟軍による、クリミア戦争(1854〜56)従軍時の「クリミアの天使」と呼ばれ、称賛されるほどの献身な看護活動である。野戦病院の負傷兵の死亡原因は劣悪な環境における不衛生がほとんどだった。患者の包帯は色が変わるまで放置され、排泄物もそのままの状態だった。先に述べた貧困地域に限ったことではなく、そもそも公衆衛生観念自体が薄かった時代である。ナイチンゲールは野戦病院の衛生環境の改善に乗り出す。煮沸、消毒、清潔な水と食べ物、病床の設置…ナイチンゲール自身も夜通し患者に包帯を巻き続け、ランプの灯を手に夜中の病院を巡回した。病床の夜は寂しく辛い。ランプの灯りは患者にどれほどの安らぎを与えたかしれない。そして死者の数は激減した。
「クリミアの天使」ナイチンゲールの名声は広く知られるようになる。彼女自身はそのように英雄視されるのを好むはずもなかったが、看護の地位を高めるため、あえて広告塔になることを厭わなかった。さらにナイチンゲールはこの時の体験を基に「看護覚書」を出版(1860年)。その反響は大きく看護の重要性は世に浸透し、世界初の看護学校がロンドンに創設されるに至った。その内容は後に日本の看護教育へも多大な影響を与えることになる。
ナイチンゲールはさらに負傷兵の精神的なケアにも力を注いだ。看護は医療行為に留まるものではない。ナイチンゲールの看護学は身体への衛生という科学的アプローチと、精神に対するケアの両面からなる。その精神的なケアの下地となるのがキリスト教に基づく宗教思想であった。
宗教者ナイチンゲール
ナイチンゲールは代々ユニテリアンの家系に育った。ユニテリアンはプロテスタントの一派だが、キリスト教の公式な教義とされる三位一体説を否定している。神は唯一絶対的な存在であるからキリストの神性を認めず、キリストは神ではなく最もすぐれた「人間」であるとしている。人間の理性や良心を重視するユニテリアンは、教会の代わりに聖書のみに依る集会を開いたり、刑務所改革や女性の権利などの社会運動を積極的に行った。ナイチンゲール自身は三位一体説を支持しており、カトリックに改宗しようとまでしたというが、その社会活動の背景にはユニテリアンの思想があったことは間違いない。 一方で、カトリックへの改宗を考えながらも、人間を罪人とする教えは受け入れられなかった。ナイチンゲールにとって人間の過ちは「罪」ではなく経験であった。彼女は様々な罪を犯してもそれらを乗り越え成長していくことに人間の尊厳を見たのである。
ユニテリアンにもカトリックにも完全には傾倒できないナイチンゲールの信仰は、従来のキリスト教の枠を超え、キリスト教神秘主義の流れに向いていく。神秘主義の要諦は「神との神秘的合一」である。正統派、特に西欧キリスト教において神と被造物である人間の間には深い溝があり、人間が神に近づくことはできないとされ、神秘主義者の多くは異端とされた。しかしナイチンゲールにとって神秘主義は正統派よりも親しいものだった。何故なら、ナイチンゲールが看護の道を志した最初のきっかけは元々は「神の声」によるものだったからだ。1837年2月7日、17歳の彼女は「我に仕えよ!(To My Service)」という神の啓示を受けたという。その後3度に渡って神の声を聴いたとされる。ナイチンゲールは病人や貧しい人たちの惨状を知るに従い、この「仕えよ」を世の中に奉仕すること、つまり看護師になることと解した。
ナイチンゲールはキリスト教系神秘思想家・スウェーデンボルグ(1688 〜1772)の神秘思想に共感していく。彼は生きながらにして霊界を探究し、天国や地獄を観たという幻視者として知られている。また科学者としても著名で多くの実績を残している。統計学者としても名を残す程の知性を備えた「幻聴者」ナイチンゲールは、スウェーデンボルグの科学と宗教の両立という側面に惹かれたのかもしれない。科学的な合理性だけでは看護としては不十分であり、患者の心に寄り添うことが重要である。そのためには深い信仰による謙虚さが要請される。スウェーデンボルグがそうであったように、ナイチンゲールもまた肉体というリアルに対しては科学的に、精神というもうひとつのリアルに対しては信仰という内なる霊的な探究が必要だと考えていた。なお、「奇跡の人」ヘレン・ケラー(1880〜1968)もスウェーデンボルグに強い影響を受けている。
信仰の力とは
裕福な家に育ちながら下層民へのまなざしを持ち自ら飛び込んでいったと聞くと「蟻の町のマリア」北原怜子(1929〜58)がよく似ている。北原はナイチンゲールのような神秘体験こそ無いが、自らの慢心を突きつけられる出来事を神からの叱咤と捉え「回心」した。ナイチンゲールも知性・合理性だけでは看護学は大成できなかった。敬虔なクリスチャンの家庭で育まれ、強烈な神秘体験に裏打ちされた深い信仰こそが、彼女を戦場に向かわせ献身的な看護に導いたのである。最近は一部の宗教団体と政治家との関係が取り沙汰され、宗教全般に対する目が厳しくなっている。私たちは本当の信仰の力とは何かを彼女たちから学ばなければならない。
参考資料
■佐々木秀美「フローレンス・ナイチンゲール その神秘主義的思想」『看護学統合研究』第21号 広島文化学園大学看護学部(2019)
■徳永哲「F.ナイチンゲールの近代看護の確立-科学とキリスト教信仰という内在的矛盾を抱えて」『日本赤十字九州国際看護大学紀要』第12号(2013)
■拙稿 ヘレン・ケラーが信奉していたスウェーデン・ボルグの神秘思想
■拙稿 蟻の街のマリアと呼ばれた北原怜子(きたはらさとこ)の慢心と回心