死に対するテキストの一環として仏教の「浄土三部経」のひとつである「観無量寿経」を検討する。悲惨な境遇に置かれたひとりの女性を通じて、人間の弱さと劣悪さを指摘し、生死を乗り越える道を示している。
観無量寿経とは
「仏説 観無量寿経」(以下、「観経」)は「無量寿経」「阿弥陀経」と並ぶ浄土系仏教の聖典である。冒頭を飾るのはよく知られる「王舎城の悲劇」である。マガダ国の阿闍世(アジャセ)王子は、悪友の提婆達多(ダイバダッタ)の教えに従い、父・頻婆娑羅王(ビンビサーラ)を牢獄に幽閉した。母・韋提希(イダイケ)夫人は、密かにバターと乾飯を混ぜた粉末をその身に塗り夫に与え、王は餓死を免れていた。しかしこれは間もなく発覚し、王子は韋提希までも幽閉。王は餓死することとなる。次は自分の番と死に怯え、己の境遇に嘆き悲しむ韋提希に、遙か遠方にいる釈迦は超常的な神通力を発揮。極楽往生のための具体的な方法を説くという物語になっている。釈迦は韋提希に13の観相法(イメージを使った瞑想法)と、それができない者のために念仏を唱えるだけの称名念仏を説いた。
水をイメージする「水想観」、宝樹をイメージする「樹想観」などを経て、仏の姿や極楽浄土の非常に細かい、具体的なイメージを要求する観相に至る。「観経」は極楽に往生するための具体的な瞑想テキストである。その一方で、当初は己の境遇に悲嘆するだけだった韋提希の内面に変化が現れていく描写から、末期患者へのスピリチュアルケアの要素などが読み取れる。なお阿闍世は後に激しく後悔し苦しみ、釈迦の慈悲に救われることになる(詳細はこちら)。
凡人・韋提希の死の受容
前述のあらすじでは実の息子に幽閉され、夫を殺された韋提希は悲惨の極地である。しかし一方の事情を読むと、韋提希に全面的に同情できるものでもなくなる。善導(613〜681)による注釈書「観無量寿経疏」によると、世継ぎにめぐまれなかった王は、仙人が3年後に死んだ後に王子として生まれ変わるとの予言を受け、待ちきれずその仙人を殺してしまった。仙人は王子に生まれ変わって王を殺すと言い残して死んだ。この予言を恐れた王は生まれたばかりのわが子を殺そうとし、韋提希もこれに同調したという。
史実であるかは別として実に身勝手な話である。自業自得もいいところだが、韋提希はそんなことは棚に上げて、わが子を悪子と呼び、釈迦に対しても、息子を扇動した提婆達多の親族であることを責めるような言い方をする。さらに韋提希はこの世に絶望し生きていたくないと嘆き、釈迦にこの世を超える世界の提示を求めた。
釈迦はそんな韋提希に無数の仏の世界・仏国土の光景を見せる。それぞれが特徴的な仏国土の中で、韋提希は極楽浄土への往生を願うようになった。そして、自分は極楽浄土を見ることができたが、釈迦滅後に未来の人たちはどのようにして極楽を見ればよいのかと尋ねた。嘆くだけだった韋提希は生死を超越する世界を知り、さらに他人を思いやる気持ちが生まれたのである。その方法がこの後に説かれる観相であり、釈迦がすべてを語り終えると、韋提希は悟りを得て生死を超越する境地に至った。
仏教学者・田代俊孝は、この韋提希の心情の変化は、キューブラー・ロス(1926〜2004)が提唱した死の受容のプロセス「否認」「怒り」「取引」「抑鬱」「受容」に通じるものがあると指摘する。最初の嘆きは「否認」に相当し、阿闍世や釈迦を責める「怒り」が見出される。極楽浄土の提示と往生という「取引」すら見られるし、そもそもが「抑鬱」状態である。そして極楽浄土への往生を確信した韋提希の悟りは死の「受容」に匹敵すると考えられる。
下品下生の者
「観経」では人間には位があり、往生の仕方にも格差が生じると説く。上品、中品、下品にそれぞれ上生、中生、下生があり、9つの位に分けられる。最上級が「上品上生」、最下級が「下品下生」である。現代語の上品下品の語源ともされるが、ここでは「品」は「ひん」ではなく「ぼん」と読む。
釈迦が説く観相のイメージはかなり細微に渡る光景が要求されており、最下級である「下品下生」の者にはまず不可能で、そのような者には観相以外の別の往生方法が用意されている。それが「南無阿弥陀仏」と念仏を称えるだけの称名念仏である。後に法然(1133〜1212)がこの教えを特化して、専修念仏の教義を確立し浄土宗を開くことになる。法然が着目したように「観経」の真髄は「下品下生」にある。如来の慈悲の前に格差は無い。差があるのは生きる人間自身である。
韋提希が悟りに至ったのは釈迦がすべてを語り終えた後であり、語りの最後が「下品下生」であることは見逃せない。釈迦は観相の説明する前に韋提希に対して、死を免れない凡人に過ぎず、その心は弱いと指摘している。自分の落ち度は棚に上げて息子を責め、釈迦にさえ噛みついた韋提希は、病床でわがまま放題に振る舞う「病人さま」と変わらない。彼女の位は「下品下生」であったといえるだろう。
しかしこの世に「下品下生」でない人間、「下品中生」以上の人間などいるだろうか。死を突きつけられ絶望に陥った者が「下品下生」たる「病人さま」になるのはやむをえない。私たちも健康な時には理性的倫理的な態度を取っていても、いざがん宣告などを受ければ激しく狼狽する有様が目に浮かぶ。自分を棚に上げての悲嘆も凡人ならではである。韋提希は明日の私たちなのである。
どうしようもない人間
仏教学者・紀野一義(1922〜2013)は「親鸞上人は、観無量寿経に『下品下生』ととりあげられ、恵心僧都によって『極重悪人』と打ち出された、あの『人間のどうしようもなさ』に真向からぶつかって行った」と述べている。
韋提希を頭ごなしに責められるほど上等な人間などいない。私たちも死に直面した時、嘆き悲しみ、自分のやってきた所業などは棚に上げてすべての人に呪うだろう。「観経」は韋提希を通じて「人間のどうしようもなさ」を指摘し、それでも救いはある、生死は超越できるのだと説いているのである。
参考資料
■中村元・紀野一義・早島鏡正「浄土三部経〈下〉観無量寿経・阿弥陀経」岩波文庫(1990)
■浄土真宗本願寺派総合研究所「浄土真宗聖典(註釈版 第二版)」本願寺出版社(1988)
■浄土真宗聖典編纂委員会「浄土真宗聖典 七祖篇(注釈版)」本願寺出版社(1996)
■田代俊孝「仏教とビハーラ運動―死生学入門―」法藏館(1999)
■紀野一義「わが親鸞」PHP研究所(2015)