お布施という言葉にあまり良いイメージは無いのではないか。大抵は葬儀や法事の際に僧侶に支払う読経代を指し商売の臭いが漂う。怪しげなカルト教団の教祖に金品を貢ぐ行為を浮かべる人もいるだろう。伝統宗教の「生臭坊主」やカルトによって皮肉めいた響きが根付いてしまった「お布施」だが、本来は私たちがこの世に生きる苦しみから解放されるための基本かつ重要な「行」のひとつであった。
苦の最大の原因「執着」
豊臣秀吉の最期はわが子秀頼の行く末を案じながら逝ったと言われる。望むすべてのものを手にした天下人。しかし成り上がり故に後ろ盾を持たない秀吉は自分の死後、家の存続と子の未来を最も恐れた徳川家康に託すしかなかった。
ブッダは生きることは苦であると説いた。その原因は「執着」にある。仏教の教えとは執着を捨てることに尽きる。執着とは何々が欲しい、何々を失いたくないと、その何々にこだわり、しがみつくことである。苦しみの原因はそこにある。生きることは求めることであり、求めることが苦となる。
現実のこの世界では、よほどの苦境に陥っていない限り私たちは生きていたい、死にたくないと思うのが普通である。やりたいこと欲しいものはたくさんある。それらの願いが叶えば幸せになれる。幸せになるために生きていたい。そう考える。しかし願いが満たされない毎日は苦しい。叶ったら叶ったでせっかくの幸せを失いたくないと、その幸せにしがみつく。ゆえに幸福もまた苦の原因である。ブッダは「愛別離苦」とも言う。愛する者がいることは幸せだが、失う恐怖がつきまとい、失った時の悲しみ苦しみは計り知れない。最も大切な存在が、最も大きい苦しみを生む。それにしがみつかなければ失っても苦しまず、そもそも最初から欲しがらなければ苦しみは生まれない。
対象が何であれ、そのあるものに執着して手放せないからそこから動けない。動けないから死んでもまたその続きが待っている。これを「業」(カルマ)という。輪廻転生の円環から抜け出せない最大原因である。私たちは執着を捨て業を消化しない限り、つまり「解脱」をしない限り永遠に輪廻の中で苦しむことになる。
そこでブッダは「出家」と「布施行」を説いた。出家は欲望に溢れた日常世界に背を向け解脱するための修行の道に入ること。そのために家族や財産など持てる物はすべて捨てなければならない。一国の王子だったブッダも執着を捨てるために国や家族を捨て出家した。求めず、捨てること。布施行はそのための基本であり最も重要な行となる。同時に出家をせず普通の生活を送る在家の民でもできる行でもあった。
執着を捨てるための「布施行」
布施行は輪廻転生から解脱して仏になるための六つの行「六波羅蜜」のひとつであり、その最初に位置する。まず行うべき最初の修行が布施である。布施には「法施」「財施」「無畏施」がある。「法施」は真理の法・仏法を授けること。「財施」は金銭や土地、食料など物理的な財産を寄進することとされる。
当然「法施」は出家者が在家者に与える布施である。「財施」は出家のための準備であり、また出家できない在家の信者でも可能な方法である。最も日常的な財施は出家者の支援だろう。労働を禁じられている出家者は日に2度、食べ物を貰うために町に出る。これを「乞食」(こつじき)という。在家者は乞食を行う出家者に食べ物を与える。出家者は布施のおかげで労働をせず修行に打ち込め、在家者は布施をすることで出家者から法施を頂ける。互いに持てるものを与える、つまり自分にとっては捨てることで、より価値あるものを頂ける。これを「功徳を積む」という。
なお「無畏施」は苦境に陥っている人に助けとなる言葉を与えること。他者に物を与え、言葉与え、法を与える。持てるすべての物を手放し、何も所有することなく執着から解放される。やがては「生」そのものへの執着も捨て去るようになる。布施をすることで「功徳」が積まれて「業」が消えていく。魂が清らかになると言い換えてもよい。解脱への大きな一歩である。
お布施を読経代というとありがたみが薄れるが、本来の意味から外れてはいない。読経とは参列者に仏法を説く法施であり、葬儀は僧侶と参列者が相互に布施を与える場でもある。
「無執着」の暴走
布施のもう一つのマイナスなイメージはカルト教団の集金システムである。教団の運営などに使われるのはまだ良いが、教祖や幹部らの遊興費となるのは言語道断である。その代表がオウム真理教だった。そしてオウムがカルト宗教の中でも危険だった点は、脱・現世思想だったことである。信者が布施を献上するのは、基本的にはこの世における様々な苦しみから逃れ幸福を得ること。現世利益という対価を得るためである。これに対してオウムは信者に出家の道を用意し、この世の幸福に背を向けさせた。信者たちの目標は解脱である。現世からの離脱を唱えて集団自殺に及んだカルト団体は多い。これはこの世に対する執着がなくなったからとも言える。悟りと狂気は紙一重だ。オウムはそこからさらに一歩進み、世界中の人間も解脱させるべきだとした。この世に対する執着を捨てさせ、この世の未練を捨てさせよというわけである。かくして一連の悲劇が幕を開けたのだった。なお教団の教祖は逮捕を免れたく警察から身を隠し、発見時には現金数百万円と共に息を潜めていたという。執着の権化のような「最終解脱者」であった。オウム事件は無執着という仏教の本義も、人によっては暴走する危険を孕んでいることを示したといってよい。
結局のところ私たちはこの世に対する執着で生きている。この世への執着はそのまま死の恐怖につながっている。秀吉のような英雄からカルト教祖に至るまで死の瞬間まで執着は消えない。まさに人間の業であり、これを捨てるのはほぼ不可能に思える。
小さなお布施でも
それでも私たちは他者のために何かをしたり、何かをあげたりすることがある。それによってその人が喜んでくれならこちらも幸せな気持ちになるだろう。「雑宝蔵経」は与える物がない人でもできる「無財の七施」を説いている。人を優しい眼差しでみる「眼施」、優しい顔や笑顔を見せる「和顔施」など。笑顔を人に見せるのも布施行だという。素敵な考えだと思う。
仏教の根本思想は「無我」と「縁起」(つながり)である。「自分が」「自分の」「自分に」「自分を」とならず、小さなことでも与え合うこと。互いに「お布施」をし合えるなら、解脱とまではいかなくても少しは楽に生き、穏やかに去ることができるかもしれない。