日本最大の宗教は仏教であり、最大の仏教宗派は浄土真宗である。ところが最もメジャーであるはずのこの宗派は、日本仏教の中でも異端ではないかと思われるほど極めて異彩を放っている宗派である。
鎌倉新仏教・浄土真宗
日本仏教は大きく、密教、浄土、禅、法華(日蓮)の4系統に分類される。法然(1133〜1212)、道元(1200〜53)ら真言宗以外の宗祖は天台宗の本山、比叡山延暦寺で修行した。天台宗は四系統を兼学する総合宗派である。鎌倉時代、彼らはそこから禅、浄土などそれぞれの系統を選択し特化した宗派、浄土宗や曹洞宗などを立教した。鎌倉新仏教である。なお天台・真言以前の奈良仏教(南都六宗)の唯識や中論といった学理は仏法の根幹として各系統で学ばれている。
新仏教の祖師たちは複雑な仏教(天台)から民衆にも容易に学べるように選択、特化して作り上げたものである。その中でも親鸞(1173〜1262)が開いた浄土真宗は、念仏以外の諸行を廃し、阿弥陀仏(阿弥陀如来)以外の神仏をすべて遠ざけた。日本仏教史上でも特異な宗派といえるかもしれない。
その教えは人間の愚かさと無力さを見つめ、自分自身でできることを徹底的に排除する。そして阿弥陀仏の慈悲にすがること=「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えることで救われると説く。このシンプルな教えは無学な庶民に支持され、浄土真宗を日本仏教の最大宗派、つまり日本最大の宗教にした。
正統か異端か
念仏に帰依する者は死後、阿弥陀仏が迎えに来て極楽浄土に連れて行ってくれるとされる。いわゆる極楽往生である。往生した臨終者は仏弟子となり極楽浄土でやがて「仏」となる。これが「成仏」である。浄土思想とはこれに尽きるのだが、浄土真宗はこの原理原則に基づき、従来の仏教からはかなり異質な形になっていった。
死者は既に極楽往生している。つまりこの世をさまよう霊魂と呼ばれる存在は否定される。お盆、厄除け、水子供養、葬儀の帰りの「清め塩」も無意味である。念仏を唱え阿弥陀仏に任せておけばよいのだから、他の神仏を崇める必要はなく、寺院にはお守りやおみくじの類いはもちろん御朱印もない。最もポピュラーなお経である般若心経も唱えない。真宗の看板は人間は無力であり悟りを開くことなどできないので、阿弥陀仏の慈悲にすがるしかないとする「他力」である。般若心経は自ら悟りを開くための「自力」の教えを説くものなので道が違うのである(「法華経」を絶対的真理とする日蓮系宗派でも心経は唱えない)。念仏のみを実践する真宗は、禅宗のような厳しい修行は行わない。密教の代名詞で、日蓮系でも行われている加持祈祷も同様である。つまり真宗には仏教・寺院に対する一般的なイメージのほとんどが存在しないのである。
日本仏教の中ではかなり特殊な形態なのは間違いなく、異端ではないかと思ってしまう。しかし上記に挙げた例を見る限り、真宗は仏教本来の道を外していない。釈迦は占い、まじない、荒行などを否定したことはよく知られている。釈迦の論でいえば祈祷や荒行を行いおみくじを引く方が異端といえるかもしれない。
クリスチャン・ブディスト?
では信ずるは阿弥陀のみとする一神教的な他力信仰は仏教としては異端ではないのか。元々仏教は自力の宗教である。釈迦は過度に身体を痛めつけるだけの荒行は否定したが、深い瞑想を経て真理を悟った。地力でこの世を超越したわけである。禅が釈迦仏教の正嫡と呼ばれることがあるが、禅定の様子は悟りを開いた時の釈迦を連想させる。これに対して真宗は仏教というより一神教、キリスト教やイスラム教などを思わせる。一神教は人間の無力を自覚するところから始まる。人間は何もできない。自然災害も目に見えない運命もすべては神の思し召しであり、この世の苦しみから救われるには神に委ねるしかないとする。まさに「他力」そのものである。
親鸞も自分の、人間の無力を痛感し有名な「悪人正機説」に行き着いた。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」。「悪人」とは罪を犯さざるをえない煩悩だらけの人間のことである。自分の胸に手を当てて考えてみればわかることだが、「悪人」とはすべての人間のことである。この世のどこに煩悩を持たない「善人」などがいるものか。阿弥陀仏の救いはこの世で苦悩する衆生すべてに向けられている。
この「悟り」から「救い」への転換に対し、親鸞はキリスト教を学んだとする説もあるほどである。真宗僧侶で仏教学者のケネス・タナカはアメリカで宗派を問われ浄土真宗だと答えると、「クリスチャン・ブディスト(キリスト教仏教徒)ですか」と反応されたという。確かにキリスト教との類似点は多い。だが阿弥陀仏は天地を創造し、預言を行なうような人格神ではない。親鸞によれば阿弥陀仏とは真理そのもの(法性法身)が、凡人にわかりやすい形で現れた方便としての姿である(方便法身)。ここでも仏教の原理からは外れてはいない。
肉食妻帯者・親鸞
唯一釈迦に叱咤されそうなのが肉食妻帯だろう。これは出家などできない在家の庶民でも救いの道はあると、自身も煩悩に迷い悟りなど開けなかったと自認する親鸞自らの意思表明であった。師の法然もこれを認めている。法然にとっても親鸞の妻帯は歓迎するべきことだったと思われる。仏教は貴族僧侶などのエリートだけのものではないなどと言いながら、自分たちは妻帯も肉食もせず修行していては説得力がない。親鸞の妻帯は仏の慈悲は万人に向けられていると民衆に伝えたのである。肉食についても動物の命を奪う職業である漁師や猟師への救いのエールであった。タイやスリランカなどの、出家、禁欲、修行が当然の上座部仏教の僧侶からみればとんでもない堕落に見えるだろう。それでも個人の悟りから万人の救いへの転換は仏の「慈悲」から外れてはいないといってよいのではないか。
悟りから救いへ
念仏や極楽の概念は21世紀においては古臭さは否めない。癒しの禅や神秘の密教に比べ、スピリチュアル的な世界を好む層にも人気はないようだ。一方で終末期患者へ仏教的なケアを行う「ビハーラ」活動が最も盛んなのが浄土真宗である。この対比は個人の悟りから万人の救いへの方向性を象徴しているように思える。この特異な仏教は、今後の高齢者社会において真価を発揮していくのかもしれない。
参考資料
■ケネス・タナカ著/島津恵正訳「真宗入門」法蔵館(2003)
■ケネス・タナカ「多様化する現代社会と浄土真宗―グローバルな視点より―」響流書房(2016)
■浄土真宗必携編集委員会「浄土真宗必携 み教えと歩む」本願寺出版社(2019)