仏教は生きることは苦であると説く。特に終末期に直面する患者や、家族や恋人を失い、悲嘆に陥った人達などは激しい慟哭と孤独の中にいる。そうした苦しむ人を癒すためのケアに最も必要なことは「寄り添い、聴くこと」である。そこは本当の意味の「スピリチュアリティ」に気づく場となる。
アジャセ物語とは
アジャセ物語の原点は「涅槃経」に見出され、親鸞(1173〜1262)は主著「教行信証」の第3巻・信巻に引用している。また浄土真宗の聖典である浄土三部経のひとつ「観無量寿経」には「王舎城の悲劇」としてアジャセ物語が描かれている。
マガダ国の王子・アジャセはブッダの弟子・ダイバダッタにそそのかれ、父・ビンビシャラ王を牢獄に閉じ込め、母・イダイケをも閉じ込めた。父の死後、アジャセは罪の重さに気づき後悔の念にさいなまれることになった。そして体中に腫物ができ、悪臭を放ったという。そこで六人の大臣が訪れ「あなたには罪はない」と助言した。これに対し、ブッダの教えを拠り所としている医師のギバは、自らの過ちを素直に認めることが救いにつながること、慚愧(過ちに気づき、恥じいり反省すること)することを示した。その後アジャセに天から父の声が届く。そしてアジャセの腫物は広がり、さらなる悪臭を放った。アジャセの二度の変調は罪の意識が深まるほどにひどくなった。
アジャセはどうすれば救われるのか
この説話は息子に餓死させられた父がなお、子の身を案じている慈悲の心と、その父の慈悲に触れ、より一層罪の意識に苛まれたアジャセの慚愧を表している。しかしアジャセは慚愧すらできない自分自身の業の深さに苦しむ。何故人は悪を犯すのか。親鸞は「歎異抄」の中で善も悪も「宿業」によるものであり、自分の意思で行えることではないとする。それ故、慚愧すら自分自身でできるものではない。それではどうすれば救われるのか。
アジャセを救ったブッダの月愛三昧
ブッダはアジャセを訪ね「アジャセのために涅槃に入らない」という言葉をかけた。涅槃とは覚りの境地であると考えてよい。アジャセの傍に寄り添い、苦しもうとするブッダの慈悲によって、アジャセは自らの罪を自覚できた。そしてブッダは光明を放ち、アジャセの腫物はたちまちに癒えたという。これを「月愛三昧」という。
月愛三昧とは
この説話はブッダが超自然的な力でアジャセの病を癒した奇跡を説いているのではない。月は闇の中にあって静かにすべてを照らす。そしてただそこにいる。親鸞が言うように人間は根源的に自分自身では何もできない「罪業深重の凡夫」であり、ブッダはその心の闇をそっと照らしてくれたのである。鍋島直樹(龍谷大学)は月が静かに照らすことを、「何かをするのではなくて、そこにいること」であるとし、「月愛三昧」を「無条件の受容」という深い「傾聴」の現れとして評価している。
人は苦しみの中で自分自身を見つめるため聞き手=他者の存在が必要なのである。終末期患者へのターミナルケア、家族や恋人を失い、悲嘆に陥った遺族へのグリーフケアにおいては、傍らに寄り添い、全てを無条件に受け入れてくれる他者の存在が癒し・救いのきっかけとなる。それは現実の他者に限ったことではない。例えば念仏を通して阿弥陀仏の慈悲に気づくことなど、超越的なものとの関わりを自覚することも含まれる。
人間には光が備わっている
ブッダの慈悲にみちた言葉が染み渡ったアジャセは回心し、罪の自覚の中で清らかな信心が生まれた。何故そのようなことが可能だったのか。それは人間の本質に「光」があるからである。仏教ではこれを「仏性」といい「如来蔵」と呼ぶ。
内なる仏性があるからこそ他者と人とのつながり(縁起)を知り、これに感謝し、次の絆につなげようという心性を生む。ブッダはアジャセに「善良なものよ」と呼びかけている。罪悪の凡夫であるはずの人間が、本来は(仏性・如来蔵がある故に) 「善良なもの」だとブッダは言っているのだ。罪にまみれたアジャセが内なる「仏性」に自分で気づくことは難しく、導いてくれる他者の存在の尊さが示されている。鍋島も「救いの成就が、善き友と善き師との出遭いによってもたらされる」と述べている。アジャセ物語は仏性に目覚め、つながりを自覚することが真のスピリチュアリティであることを示しているのである。
他者とのつながりを知ったアジャセ
ブッダは「月愛三昧」を通して、アジャセに内なる仏性と他者とのつながりを教えたのである。そしてアジャセは、ブッダの慈悲に触れ、自ら罪を作らないことのみならず、あらゆる人々の煩悩の苦しみを除いてあげたいという願心がわきおこっている。
人は自分ひとりで生まれ、生きてきたのではない。多くのものや人に生かされてきた。その恩を余さず注ぐこと。それは自分自身にとっても大きな意味を持つ。受けた恩恵は次の者へ。人はそうしてつながっていくものである。教育評論家 水谷修は著書や講演で「人のために何かをすることで『ありがとう』という言葉が返ってくる。そのことで自分が必要とされている大切な存在であることに気づくことができる」と述べている。まさにアジャセはブッダという他者の慈悲によって「仏性」に気づき、他者とのつながりを次の者へ分け与えようとまで魂が成長したのであった。
本当のスピリチュアルとは
アジャセ物語は、人間は罪深く苦しむ存在であるが、その内には光(仏性)が宿っていること。それに気づくには、傍に寄り添い、全てを受け入れる、他者の慈悲が必要であること。その他者とのつながりを知ることで、仏性に目覚め苦しみから救われることを示している。
「スピリチュアル」「スピリチュアリティ」はすっかり日本語として定着したが、この「気づき」こそがその本来の意味であり、慟哭、悲嘆、孤独…などを克服する道であることを示しておきたい。
参考資料
■教学伝道研究センター編「浄土真宗聖典(注釈版)第二版」本願寺出版社(1988)
■谷山洋三編著『仏教とスピリチュアルケア』東方出版(2008)
■鍋島直樹「心の病と宗教性-深い傾聴」法蔵館(2008)
■親鸞仏教センター「現代語 歎異抄」朝日新聞出版(2008 )
■ジョン・ヒック著/間瀬啓允訳「神は多くの名をもつ」岩波書店(1986)
■親鸞著/真継伸彦訳「現代語訳 親鸞全集4」法蔵館(1983)
■平成21年度第3回まちづくりトーク会議録「夜回り先生からのメッセージ」逗子文化プラザなぎさホール(2009)