連日の新型コロナウィルス関連のニュースが続く中、若干目立たない格好になっているが、2年前の2018年3月7日、学校法人森友学園の小学校開校にまつわる疑惑が露見した後、大阪・豊中市の国有地売却問題の処理を担当していた財務省近畿財務局勤務の赤木俊夫さん(1963〜2018)が遺した、A4で7枚の手記とメモの全文が、『週刊文春』2020年3月26日号に掲載された。
赤木さんが遺した手記とメモ、それが存在すること自体は割と早く知られていた
そこには、亡くなった赤木さんが生前繰り返し語っていたという、「最後は下っ端が責任を取らされる」の言葉通り、「すべて、(当時の)佐川(宣寿)理財局長の指示」によって、ひとりで担わされる格好になっていた、複数回に及ぶ不正、そして隠蔽主義に満ちた改ざんの内容・過程が詳細に記されていた。
更に「これまでのキャリア、大学すべて積み上げたものが消える怖さと、自身の愚かさ」「家内や、家内の家族・親戚の皆様にも迷惑をかけることが本当に苦しい」「まさに生き地獄」「家内にそのまま気持ちをぶつけて、彼女の心身を壊している自分は最低の生き物、人間失格」と書き残すほど、精神的に追い詰められていた赤木さんの「選択」は実に痛ましいことだが、赤木さんの自殺という事実のみならず、「決裁文書の改竄に関わる『メモ』」、「遺書のようなメモ」が遺されていたことは、その死からあまり時が経たないうちに、マスコミ各社に報じられていた。
そして自殺してから2年の時を経て公開された赤木さんの手記とメモ
あれから2年。赤木さんの三回忌の法要が無事に終わった後、それまではそれらの公開を控えていた赤城さんの奥さんだったが、その間の財務省と近畿財務局の態度は、誠意からは程遠いものだった。しかも赤木さんを死に追いやった人々は、赤木さんの仏壇の前で謝罪し、「真実」を説明しようとはしない。そうしたことから奥さんは「真相を知るには裁判しかない」として、佐川前理財局長と法廷で対峙することで、謝罪を求め、赤木さんが何故、自殺に追い込まれなければならなかったのか、その原因と経過を明らかにする。そして二度と、公文書の改ざんが行われないようにするということだ。
著名人の自殺とその遺書やメモの公表と公開について
それでは、赤木さんのように、何らかの事件・事故に巻き込まれ、その精神的苦痛による自殺ではなく、「個人的」な動機で自殺した著名人の場合、自殺そのもの、そしてその原因、更には遺書・メモ類なども世間に即座に公表し、報道されるべきなのか。それとも、第三者からの「告白」などがない限り、永久に隠し続けていた方がいいのだろうか。
例えば、「芥川龍之介とはちがふかも知れないが、或る漠然とした不安のために」自殺したこと、そして遺書とも言うべき「ヘルス・メモ」が死後12年後に公表された、作家の火野葦平(1907〜1960)の場合はどうであろうか。
心筋梗塞とされていた火野葦平は死後12年経過して自殺であったことが公表された
1960(昭和35)年1月24日、火野自身の手で「決行」された死が世間に伏せられていたのは、ごく近い身内と火野のそばにいた秘書役の人物らの決定による、当時病の身にあった火野の母・マンと、妻・良子への配慮のためだった。「心筋梗塞による死」とされた「嘘」がうまく保たれた格好で、彼らは「真実」を知ることなく、亡くなった。火野の死の12年後、『文藝春秋』1972年4月号での公表になったきっかけは、火野の十三回忌の日、偶然にも良子が長い闘病生活の末に亡くなったためである。
遺族は自殺を明らかにしたくないかもしれない
遺族の立場からすると、自殺という事実は、火野が遺書に書き記していなかったとしても、火野自身の名誉を守るために、永久に秘匿しておきたいことだったかも知れない。「私人」としての火野も、自殺決行の当座は「それどころではない」ほど切羽詰まっていたはずだが、できるなら、「そっとしておいて欲しい」と願っていた可能性もある。
自殺の公表はその立場や関係性で大きく異なる
しかし、文芸評論家の高橋義孝(1913〜1995)が指摘するように、火野は本来、作家よりも詩人が向いていたにもかかわらず、「何かこうがさつで、ごみごみしていて、埃ッぽくて、荒々しいなりに侘しくて、粗野」な北九州・若松の「風土の委託」を受けて作家となり、「兵隊三部作」や任侠ロマン小説『花と龍』(1953年)などによって多くの読者を惹きつけた。
「公人」としての火野ならば、火野の葬儀の際に弔詞を述べた、作家の丹羽文雄(1904〜2005)が、「自然死でなかったことは、決して火野の不名誉にはならないのだ。むしろそこまで闘い抜いた火野の立場が裏書されることになる」と述べてもいることから、興味本位の「ゴシップ」的な意味合いではなく、火野のような現役の小説家や詩人、またはそれを目指す人々、そして火野が物した様々な文学作品の研究を志す人々にとっては、大きな時間的損失である。そういう点においては、すぐに明らかにされるべきだったのかも知れない。
意図せず明らかになる場合もある
しかも、後々、必ずしも「悪意」でなくても、「真相」が明らかにされてしまう場合もある。火野の自殺が公表されてから程なくして、火野と一時期、深い関係にあった「沖縄の舞姫」こと、舞踊家の平良リエ子(1929〜)に火野が宛てていた遺書も明らかにされた。それは、火野の妻・良子が他界したこと。そして、不思議なことに、平良は、火野の死が明かされる3日前から2夜連続で、火野の夢を見た。しかもそれは晩年の火野ではなく、2人が初めて出会った1951(昭和26)年当時の、まだ40代半ばの若々しい火野だったという。それゆえ平良は、火野の自殺が隠されていた12年間は、火野と自分の間柄は「私事」であるので明らかにすべきではないと自分に言い聞かせてきた。しかしここへきて、火野は、遺書を公表してよいつもりで書いたのではないか、と思うようになったという。平良が公開を決意した遺書とは、火野の自殺の14日前に記されたものだった。
「この頃は体に自信がなくなって、不安でしかたがない。ながいこと無理をしてきた罰かも知れぬ。が、いつ死んでも悔(くい)はない。日本文学史に残る作品をいくつか書いたし、作家として世に出られたということは、幸福だったとおもう。僕は、いままで女を知っているつもりでいたが、全く知らなかったのだということに気がついた。きみを知ってえた人生は、大であった。礼をいいたい。僕も、もうあとどのくらい生きられるかわからない。これが最後の手紙になるだろう。きみも体に気をつけて暮したまえ」
この遺書の一般への公開、そしてその文言を、「私人」としての火野を重んじてきたであろう火野の遺族たちは、果たしてどのように受け止めたのだろうか…
自殺が自殺を呼ぶ
また、火野の自殺が明らかになったおよそ3ヶ月後の4月16日に、ノーベル賞作家の川端康成(1899〜1972)が自殺した。火野、そして赤木さんのような「遺書」「メモ」はなかった。ただ、川端が自殺した部屋の中に、これは偶然だろうか。いずれも自殺した作家、太宰治(1909〜1948)と芥川龍之介(1892〜1927)の本が1冊ずつ置いてあったという。川端が30代の若い頃に記した『末期の眼』(1933年)には、「死の近因が見える死はいやだ。しかし死の原因といふものはその人の全生涯がそれであるとも考ヘられる」とし、謎の死を遂げた世界的大女優のマリリン・モンロー(1926〜1962)の死に対しては、「自殺とすれば、遺書のないのがいい。無言の死は無限の言葉である。裸で死んでゐたのなら、それもいいだらうか」と書いてもいる。
火野と川端は、言うまでもなく、生き様はもちろんのこと、文体・スタイル、そして創作上の世界観や追求していたことも大きく異なるとはいえ、川端は川端で、『文藝春秋』に掲載された「同業者」、火野の「ヘルス・メモ」を目にしていたのではないか。
そして火野の、「死にます。/芥川龍之介とはちがふかも/知れないが、或る漠然とした/不安のために。/すみません。/おゆるし下さい。さやうなら。」は、川端に限らず、人間誰しもが、各人の事情に応じ、多かれ少なかれ抱いている「自分自身」「今後の人生」…などに関する「或る漠然とした不安」に皮肉にもピッタリと合致してしまい、それに引きずられ、「共鳴」するかのように自殺したのではないか…
最後に…
自殺の詳細、遺書・メモなどを自分の死後、公開して欲しいか否かは、自殺した当人の気持ち次第であるのは言うまでもない。赤木さんのように真面目な人が、清廉であるべき公的な仕事の場で、「政治」や「闇」が複雑に絡み合った隠蔽工作をやらされ、その結果、精神的に追い詰められ、死を選ばざるを得なかった状況下での自殺ならば、真実を明らかにするためにも、ぜひとも世間に公開してもらいたい。だが、「個人的な」動機による自殺だったとしたら、自殺そのものや遺書・メモ類を公表すべきか否かは、実に難しい問題だ。
もちろん、自殺に限らず、人が一旦死んでしまったら、その遺志が遺族の手によって、完全な形で叶うとは限らない。それが著名人であれば、「見送る」のは家族だけではない。不特定多数の人々、その中には熱烈なファンや、アンチもいる。SNSが盛んな昨今ならば、尚更、多種多彩な、ある意味無責任な意見が錯綜することだろう。ただ言えるのは、当たり前のことだが、人が死ぬということは、急死や自殺でなくても、元気はつらつで生きていた頃のように、現在、そして未来において、その人は一切の「活動」ができなくなることだ。それこそが、死が遺された人々にもたらす、最大の悲劇だ。今日的な話題を挙げるとすれば、「新型コロナウィルス」を火野や川端は、どう捉えただろう。そしてそれを小説にするとしたら、どう斬り込んで行っただろう…赤木さんならば…。
参考資料と過去記事
【過去記事】
■「或る漠然とした不安のために」ーー火野葦平に自殺を選ばせた原因
■高塔山と甲州八幡宮のそれぞれに建てられた火野葦平の文学碑とその刻印文字
■戦犯作家のレッテルを貼られていた火野葦平が遺した兵隊三部作と自死の理由
【参考資料】
■谷川悟朗「火野葦平と母堂マンさんの死」『大乗 ブディストマガジン』1962年10月号(50-51頁)大乗刊行会
■火野葦平「遺書(ヘルス・メモ)」『文藝春秋』1972年4月号(292-298頁)文藝春秋
■「シリーズ人間:死をみつめた3時間 川端康成氏がこのマンション4階でガス栓を開くまで−」『女性自身』1972年5月6・13日合併号(50-57頁)光文社
■「シリーズ人間:火野葦平が沖縄の舞姫にあてたもう1つの遺書 平良リエ子さん(42)が文豪とすごした7年の思い出」『女性自身』1972年5月27号(44-51頁)光文社
■田中艸太郎「火野葦平」日本近代文学館・小田切進(編)『日本近代文学大事典 第3巻』1977年(118-120頁)講談社
■高橋義孝「人と文学」尾崎士郎/火野葦平『筑摩現代文学大系 46 尾崎士郎 火野葦平集』1967/1978年(471-485頁)筑摩書房
■丹羽文雄『私の年々歳々』1979年 サンケイ出版
■「ふるさと歴史シリーズ「北九州に強くなろう」No. 5 火野葦平 対談 鶴島正男・中原二典 1993年5月」『西日本シティ銀行』
■城戸洋『鶴島正男聞書 河童憂愁 葦平と昭和史の時空』1994年 西日本新聞社
■川津誠「『火野葦平』編 解説」川津誠(編)『作家の自伝 57 火野葦平』1997年(307-315頁)日本図書センター
■玉井史太郎『河伯洞余滴 我が父、火野葦平 その語られざる波乱万丈の人生』2000年 学習研究社
■川西政明『昭和文学史 中巻』2001年 講談社
■葦平と河伯洞の会(編)『火野葦平 Ⅱ:九州文学の仲間たち』2005年 花書院
■植田康夫『自殺作家文壇史』2008年 北辰堂出版
■李聖傑「川端康成『末期の眼』論 −竹久夢二・芥川龍之介・古賀春江を中心に」早稲田大学大学院社会科学研究科(編)『社学研論集』Vol. 19 2012年(98-113頁)早稲田大学大学院社会科学研究科
■「森友疑惑 自殺した近畿財務局職員の妻の無念「1人で抱え込んだ」“主犯”は佐川前長官?」『AERA dot .』2018年3月11日
■「森友問題、自殺職員が“犯人告発”衝撃メモ 近畿財務局、安倍首相「辞める」発言前から独断で削除か」『zakzak』2018年3月15日
■「森友問題で自殺した近畿財務局の職員に「公務公害」認定」『ABCニュース』2019年8月8日
■「森友改ざんで自殺の職員「佐川氏の指示」 手記・遺書公表」『中日新聞(CHUNICHI Web)』2020年3月19日
■「「すべて佐川局長の指示です」− − 森友問題で自殺した財務省職員が遺した改ざんの経緯【森友スクープ全文公開#1】」『文春オンライン』2020年3月25日
■「「まさに生き地獄」− − 55歳の春を迎えることなく命を絶った財務省職員の苦悩【森友スクープ全文公開#2】」『文春オンライン』2020年3月25日
■「トシくんは亡くなって、財務局は救われた。それっておかしくありませんか?」財務省職員の妻が提訴した理由【森友スクープ全文公開#3】」『文春オンライン』2020年3月25日
■「自殺した財務省職員・赤木俊夫氏が遺した「手記」全文【森友スクープ全文公開#4】」『文春オンライン』2020年3月25日