家族や知人を失った、遺された人は笑ってはいけないのだろうか。死者は他界で遺してきた家族には一生泣いて暮らしてもらいたいのだろうか。ルドルフ・シュタイナーの神秘思想を援用して考えてみたい。

遺族は不幸でなくてはいけない?
2019年4月、東京・池袋で発生した痛ましい自動車事故(事件というべきか)で、妻子を失った男性に一部から批判の声が出ているという。被害者の遺族は充実した日々を送り笑って過ごしてはいけないようだ。週刊現代の記事を引用する。
「僕が笑うと怒る人もいます。所属している『あいの会』のホームページに、僕が笑っている写真が掲載された時に『なんで笑ってるんですか?』という意見が来たことがあるんです。『あんなに悲しい経験をされたのに、笑えるのはおかしいと思います』といった理屈だったようです。悲しいけど、これが現実なんです」
山口県光市の殺人事件でやはり妻子を失った男性が、再婚したことで同じような批判を受けたという。一部の声とはいえ、こうした意見は一定数必ずあるようだ。なぜこのような考えを持つ人がいるのだろうか。
死者の立場
悲しい経験をした者に笑うなという論理はそれが「不謹慎」だからなのか。誰にとって、誰に対しての不謹慎なのか。当事者(被害者、遺族)ではない、第三者はしばしば「〜すべし」「〜でなければならない」と自分の倫理・道徳を押し付けることがある。クマ駆除に関するクレームがそうである。クマを殺すなという「動物愛護家」はそのすべてが他県に住む外部の人だったという。生活を脅かされている現地の人の立場になれば、頭ごなしに動物愛護の精神を押し付けるわけにはいかない。では、死者の立場になって考えた場合はどうだろう。この世に遺した家族にはどのような人生を歩んでもらいたいと思うだろうか。いつまでも延々と悲しみから抜け出せず泣かれていては、心配で旅立つことができないではないか。
四十九日という慣習がある。宗教・民族などによって様々な解釈があるが、総じて死者の霊が浄化され、次のステージを歩むまでの期間とされる。それは遺された人たちにとっても再生の期間である。悲しみを癒すことができるのは時間である。時間は悲しみと、思い出までも埋めていく。男性も「声を忘れてしまいそうになる」と述べている。正直な思いだろう。死者の存在を忘れてはいけない。每日思いを巡らせて生活するわけにはいかないが、死者は生者と共にある。墓参りや法事などはその確認のためにあるのだ。
ルドルフ・シュタイナーの霊魂説
ここまでの「死者」なる表現は、叙情的、文学的な感傷に近かったが、「死者の霊」が実在すると考えればどうだろう。神秘思想家 ルドルフ・シュタイナーによると、死者の霊とこの世にいる我々とは密接な関係があり、我々には死者からの念が送られている。それは時には直感、時には夢という形で現れる。そしてこちらからも死者に念を送ることができるという。これらを踏まえ、シュタイナーは死者に向かって、精神的に深い内容が書かれた本(自らの著書など)を読むことは大きな供養になると述べている。その際は傍らに死者がいるとイメージし、本の内容について共に体験するようにする。すると死者にそのイメージが届くという。本の深い内容そのものが文字を超えて死者に染み込むということだろうか。これは葬儀の際の読経にも言えることかもしれない。死者には般若心経や阿弥陀経の内容が知識ではなく体験として伝わるのである。
シュタイナーは死とは生の変容であると説く。形が変わるだけで、死者と遺族の絆は消えることはない。遺族の心が充実していれば死者も充実する。遺族が笑って暮らしているなら、あの世の死者も笑って暮らせるというのである。こうした説を荒唐無稽と笑い飛ばすのは自由である。だが、否定して得るものより、精神的に多くのものを得られるのではないだろうか。
死者の声
男性は「被害者遺族が笑ったっていいじゃないですか」と語る。シュタイナーの説く死者との交流が事実であるなら、死者の想いは遺族に様々な形で、朧げながらも伝わるはずだ。妻や子は夫・父に泣いて暮らしてもらいたいのか。笑って暮らしてもらいたいのか。それは他人にどうこう言う権利はない。家族だけが聴こえる死者の声である。私たちは死者の声に耳を傾けなくてはならない。
参考資料
■「なんで笑ってるの?」…【池袋暴走事故】の被害者遺族、松永拓也さんが「笑うな」と批判されても笑顔を見せる「深いワケ」週刊現代 2024年12月30日配信
■ルドルフ・シュタイナー著/高橋巌訳「シュタイナーの死者の書」筑摩書房(2006)
■高橋巌「現代の神秘学」角川書店(1989)