2004年に株式会社第一生命経済研究所が、40〜79歳の男女792名に「死に対する意識と死の恐れ」と題するアンケート調査を行った。その中の「死期が近いとしたら不安や心配なこと」という問いに対する答えで最も多かったのが、「病気が悪化するにつれ、痛みや苦しみがあるのではないかということ」で56.2%。次いで「家族や親友と別れねばならないこと」が50.9%。「残された家族が精神的に立ち直れるかということ」が35.2%。「自分のやりたいことができずじまいになること、やり残した仕事があること」が34.2%。「残された家族が経済的に困るのではないかということ」が27.9%だった。
最初、火野葦平が自殺でなくなったことは伏せられた
ここで挙げられている様々な「死の恐れ」ばかりでなく、「芥川龍之介とはちがふかもしれないが、或る漠然とした不安」を抱える人も少なくないだろう。
このフレーズを含む遺書、そして亡くなった日から遡ること2ヶ月弱の毎日の暮らしや、血圧の数値を詳細に記録したノート『Health Memo』を最後に残し、自宅の書斎で、戸籍上の誕生日を1日残した昭和35(1960)年1月24日、睡眠薬自殺を図った男がいた。
『糞尿譚(ふんにょうたん)』(1937年)で芥川賞を受賞し、約4年間の中国大陸における自らの戦争体験に基づいた『麦と兵隊』(1938年)、『土と兵隊』(1938年)、『花と兵隊』(1939年)の兵隊三部作、そして自身の父である、北九州・若松(わかまつ)港の石炭仲仕(なかし)の親分・玉井金五郎(1880〜1950)と、その妻マン(1884〜1962)の生き様を描いた長編小説『花と龍』(1953年)を著し、なおかつ、男気溢れる豪放磊落な「親分肌」の人物として、多くの人に慕われた火野葦平(ひのあしへい、1906(戸籍上は1907)〜1960)だ。53歳だった。当時の日本人の平均寿命は、男が65.32歳、女が70.19歳。それを思うと火野の死は、まだまだ「男」として、ひと花もふた花も咲かせ得る年齢でもあった。
しかもその事実は、当時病身の身であった火野の母・マンと妻・良子への配慮のため、残された火野の息子たちと若松の秘書・小田雅彦(1918〜1990)、そして火野の盟友であり、九州文学界の重鎮でもあった劉寒吉(りゅうかんきち、1906〜1986)との相談の結果、伏せられ、「心筋梗塞」で急死したとされていた。
しかし、隠してきた事実が暴露されつつあったこと。更にちょうど火野の死の十三回忌に当たる昭和47(1972)年1月24日に良子が亡くなったことによって、火野の自殺が世間に明かされたのだ。
火野葦平が自殺をした理由
自殺の原因は結局、火野本人にしかわからないし、或いは、火野自身にもわからないことかもしれない。だが、その「決行」の日の前夜、火野の家を訪れ、当時は福岡県立若松高等学校の教諭であり、火野の次男・英気の担任をしていたことがあった文学研究者の山田輝彦(1921〜2009)は、火野の自殺について、以下、4つの要因を挙げている。
まずは、高血圧症などの肉体の衰え、そしていつ発作に倒れるかもしれないという不安感。次に、「扶養家族50人」「100人」と火野が冗談めかして語っていたように、「親分肌」の火野のまわりには、多くの人が集まっていた。そんな彼らに火野が金を無制限に貸し与えていたりしたことなどによる経済問題。3つ目は、才能の枯渇や文学的な行きづまりへの不安。それは経済的逼迫ゆえに、商業ベースでの創作活動を余儀なくされたため、作品が「粗製乱造」状態に陥っていた。しかも火野と入れ替わる格好で、火野同様の北九州出身で、社会派推理小説作家の松本清張(1910〜1992)がちょうど台頭し始めてきた時期でもあった。そして最後が、「兵隊三部作」を物した自身に対する「戦争責任」への「負い目」が、戦後以来ずっと、火野の心に鬱屈し続けていたことだ。
その他にも色々と推測された自殺の理由
また、火野の東京の秘書だった小堺昭三(1928〜1995)は火野に死を選ばせた状況について、山田の説に加え、『赤道祭』(1951年)や『琉球舞姫』(1954年)のモデルになった女性との、火野にとってはあくまでも「真剣」だった不倫関係。そして火野自身の“お山の大将”意識を指摘している。これは経済問題とも関わることだが、「戦犯作家」というコンプレックスが、火野に福岡・若松と東京・阿佐ヶ谷をひと月おきに飛行機で往復する二重生活を送らせることになっていたことだ。東京では、進歩的インテリたちが「『麦と兵隊』のあの火野か」という眼でしか見ない。無視しようとする。それがどうにもシャクでたまらず、ジャーナリストの大宅壮一(1900〜1970)が言う「無形の財産」である大親分でいられ、周囲からの羨望を浴びることができる、本拠地の若松に戻って休養する。そして再び東京に出て、「泥臭い」と言われる前に、自分から野人的存在であることをアピールする。だが火野は、「若松の人の大部分は私を理解しない」と嘆き、「もういい加減に上京しとう(したく)なった。田舎は息苦しいよ」と自嘲的に笑っていたりもしていた。つまり火野には、自身が抱えたあらゆる苦しみや悩みから解放してくれる「場所」がどこにもなかったのだ。その繰り返しに、経済的のみならず、肉体的・経済的にも疲れ果て、最終的に、自分の絶頂期に見事かつ勇敢に“戦死”した。また、火野同様、自ら死ぬことを選んだ三島由紀夫(1925〜1970)が味わった、『豊穣の海』(1969〜1971年)の最終巻、「天人五衰」を書き終えた際に味わった喜び、そして将来に対する不安感にも似た、自らの「戦争責任」を総括した作品、『革命前後』(1960年)を完成してしまった後、何を書くか…という空虚感に満たされてもいたはずだとも述べている。
人からの印象と自身の本性にギャップがあった火野葦平
生前の火野をよく知るものの、肉親よりは「離れた」立場であった山田や小堺の「見立て」に、大きな狂いはないだろう。言うまでもなく、こうした要因があったからといって、全ての人が自殺に走るわけではない。それは、火野が世間に見せようとした、荒くれ仲仕たちを束ねる強烈な胆力とカリスマにあふれた「親分」そのものであったなら、文芸評論家の高橋義孝(1913〜1995)が見抜いていたように、いわゆる「文学」で一時代を築くことは不可能だったはずだ。陽気な大酒飲みで、オールバックヘアに80kgを超す「お相撲さん」のような巨漢。しかも三白眼で、あまり表情を変えない。それゆえ堂々とした、一見「壮士」風に見える火野ではあったが、酒が入っていないときは声も小さく細く、自分が話している相手の顔色を見落とすまいとして、戦々恐々としている様子だったという。
見た目やその振る舞いとは裏腹に非常に内向的だった火野葦平
実は火野は内向的な性格で、なおかつ、実に繊細な神経の持ち主だった。心優しく、気が弱く、他人からの申し出を断ることができず、そのために自分が無理をしてしまうところがあった。確かに「生まれ」は、明治24(1891)年、筑豊炭田と若松港を結ぶ筑豊本線が開通以降、石炭荷出し港として興隆を極めたことから、主に九州・四国・山陰地方から多くの人々が蝟集し、縄張り争いや暴力沙汰が頻発した、「日本における“暴力の街”ナンバー・ワンといえないまでも、ビッグ・スリーには確実に入る」と昭和31(1956)年、実際に現地を訪れ、火野を取材した大宅壮一に言わしめた「場所」だった。
しかもそこで沖仲仕を束ねる「親分」、玉井金五郎の長男として生まれた火野だったが、17歳のときに『思春期』(1923年)というタイトルで長編自叙伝を記すなど、力自慢の荒くれ者とは真逆の、早熟な文学青年だった。そして好んだ作家は、勇猛果敢で男らしい主人公が登場する冒険活劇などではなく、芥川龍之介(1892〜1927)、佐藤春夫(1892〜1964)、武者小路実篤(1885〜1976)。詩人であれば、北原白秋(1885〜1942)、日夏耿之助(ひなつこうのすけ、1890〜1971)、萩原朔太郎(1886〜1942)など、実に「文学青年」らしい好みだった。特に芥川龍之介に関しては、自身の遺書に名前が登場するばかりではなく、自殺を決行した芥川による『或旧友へ送る手紙』(1927年)に登場する、「将来に対する唯ぼんやりとした不安」という有名な言葉を引用し、芥川の作品のみならず、「死に方」までも見習っているように思われる。
余談だが、ジャーナリストの植田康夫(1939〜2018)は、芥川が亡くなったのが昭和2(1927)年7月24日。そして火野は、小雪が舞い、凍てつくような寒さだったという1月23日深夜11時に遺書をしたため、その月命日と一致するように「工夫」したのではないかと考えている。
火野葦平が生きた当時の日本の状況
また、郷土史家で「火野葦平資料の会」の会長を務めた鶴島正男(1926〜2006)が言うには、火野が亡くなった当時の日本は、日米安保反対デモ、福岡県大牟田市・同三池郡高田町(現みやま市)・熊本県荒尾市にまたがる、三井三池炭鉱における労働争議、全国の教職員組合員が起こした、教員の勤務評定への反対運動である勤評(きんぴょう)闘争など、日本全土が騒然としていた。
火野自身は戦時中に中国で、何度も死線をくぐり抜けてきてはいたものの、元々の繊細な性格に加え、「高血圧症状がおこつてから、まつたく健康に自信がなくなつた。いつか倒れるかわからない」という健康不安ゆえに、戦後日本の革命的な変転について行くことができず、力尽きてしまったのではないかと指摘している。更に鶴島は、火野が17歳の時に執筆した『山』(1923年)の主人公・狸吉と、『革命前後』の、火野自身がモデルとされる主人公・辻昌介が自決を試みるシーンとの酷似を挙げていた。
1.「机の抽匣(ひきだし)から一本の短刀を取り出した」(『山』)
「軍刀を取り出した」(『革命前後』)
2.「彼は鞘(さや)を払った」(『山』)
「鞘を払った」(『革命前夜』)
3.「細い月に鋭い刃はきらりと物凄く光った」(『山』)
「外部からのかすかな明かりで刀身が鋭く光る」(『革命前夜』)
4.「それを腹に当てた」(『山』)
「刀の切先を腹に当ててみた」(『革命前後』)
そんな火野だったが、死の年の3月にソ連旅行に行くことを心待ちにしていたというし、死の前年、『Health Memo』が記録され始めるより前の11月に、
1.得意の河童の絵をメインとした火野葦平画集を出す
2.自身が回ったヨーロッパやアメリカで撮影した写真をまとめた写真集を出す
3.「日本河童考」の論文で農学博士になる
4.文学全集300巻の企画
5.70歳になったら、若松市長になる
という「葦平晩年5つの愉しみ」を世間に発表してもいた。
刀で切腹しようとしているシーンであるため、「ありがち」と言えば確かにそうだ。しかし、17歳の青春真っ盛りであった火野の心の中に既に、「自ら死ぬこと」、または「死」そのものに対する確固たる決意や意思が存在し、それが中年期まで維持され続け、最終的に「実行」に至らしめていたことを物語っているのではないか。
火野葦平が自殺する2,3年前の本人の様子
火野の死の2〜3年前から始まり、気に病んでいた高血圧や眼底出血などの健康問題にしても、火野の主治医は、体重計をチェックして減量を心がけたり、毎日血圧を測ったり、少しでも体に異変を感じたら、自宅に医者を呼んだりしていた火野の日頃の様子から、「症状は決して悪くなく、どちらかといえば健康だった」と語っていた。
しかし自殺直前の火野は、精神的にかなり追い詰められていた。周囲の意向を無視して、あえて家中を黒一色で統一し、民芸調の暗い雰囲気を醸し出していることが大のお気に入りだった阿佐ヶ谷の自宅で夜、原稿を書いていると、「うしろの闇から、なにかが覆いかぶさってくるような気がする」と怖がって、家中の電気をつけさせたり、原稿を書くことを止め、人を招いてはビールを飲んで、気を紛らわせたりしていた。更に書斎の壁に掛かっていた丸木スマ(1875〜1956)の黒猫の絵でさえ、気味が悪いと撤去させていた。また、若松で飼っていたライオンがクル病にかかり、歩くことさえままならないほど弱っていくのを目の当たりにする中、火野はますます憂鬱になっていったという。
最後に…
火野の繊細過ぎる、まさに文学者向きの性格に加え、小堺が指摘するように、火野は戦時中に『麦と兵隊』で得た名声を忘れることができず、常に人からの注目を浴びていたかった。作品に対する評価ばかりでなく、人が自分のことをどう思うかを、いちいち気にせずにはいられなかった。そうした「俗念」を断ち切るために、若松〜東京を行き来する「根無し草」の暮らしではなく、思い切って若松を捨て、東京にどっしり根を下ろし、「人気」「賞賛」などの「不確実なもの」から離れたところで文学に専心すべきだった。しかしそれができなかった人間的な弱さが、本名・玉井勝則ならぬ、火野葦平の火野葦平たる所以だったのだろう。
火野が演じたかった、そして必死に演じた「若松の大親分」としての火野葦平が火野の全てであったとしたら、火野は自殺どころか、そもそも作家を志すことすらなかっただろう。父・玉井金五郎のように、剛毅な「大親分」としての一生を全うしていたはずだ。そうなると、多くの人々の心をつかんだ彼の様々な作品は、到底生まれ得なかった。あるひとりの男に偶然か必然か、課せられてしまった運命の皮肉を思いながら、今日ではすっかり「忘れ去られてしまった」火野の作品を今、我々は改めて読み直すべきなのではないだろうか。
参考資料
■山田輝彦「火野葦平論」福岡県立若松高等学校郷土研究会・山田輝彦(編)『研究紀要』第4集 1952年(17〜26頁)福岡県立若松高等学校郷土研究会
■大宅壮一『日本の裏街道を行く』1957年 文藝春秋新社
■火野葦平『火野葦平選集』第1巻 1958年 東京創元社
■高松裕「作品は作家の死を予告する」『週刊公論』1960年2月9日号(72−77頁)中央公論社
■「火野葦平は自殺だった 死語12年、ふせてた遺族 枕元に遺書 友人に別れ電話も」『毎日新聞』夕刊 1972年3月1日(9頁)毎日新聞社
■「火野葦平は自殺だった 死後12年、遺族がはじめて公表 遺書代りの『闘病日記』 祖母や母への影響考え 遺族が真相伏せる」『朝日新聞』夕刊 1972年3月1日(11頁)朝日新聞社
■「‘死期を予知’若松親分 十三回忌に5人の子息が真相明かす 火野葦平は自殺だった」『夕刊フジ』1972年3月2日(1頁)フジ新聞社
■「火野葦平氏は自殺だった 遺族、夫人の死を機に「遺書」公表」『日本経済新聞』1972年3月2日朝刊(23頁)日本経済新聞社
■玉井正雄「龍之介と葦平の死 −同じ命日をえらんだ心」『毎日新聞』夕刊 1972年3月4日(5頁)毎日新聞社
■「12年目に明かされた作家・火野葦平さん自殺の真相」『週刊平凡』1972年3月9日号(176−177頁) 平凡出版
■火野葦平「遺書(ヘルス・メモ)」『文藝春秋』1972年4月号(292−299頁)文藝春秋
■田中艸太郎「火野葦平氏の自殺について」『文芸』1972年5月号(192−194頁) 河出書房新社
■小堺昭三「火野葦平は壮烈に‘戦死’した」梶山季之(編)『月刊噂』第2巻 第5号 1972年5月号(32−38頁) 季龍社
■小堺昭三「火野葦平 その愛と死」『オール讀物』第27号(第5号)1972年5月号(330−353頁)文藝春秋
■玉井英気「十三回忌にあかす父の自殺」『文藝春秋』1972年4月号(293−295頁)文藝春秋
■玉井正雄「文学者と自殺 −火野葦平の死について−」『政界往來』1973年2月号(124−135頁)政界往來社
■常石三郎「火野葦平論 −その病跡素描−」『日本病跡学雑誌』第5号 1973年4月号(15−21頁)日本病跡学会
■山田輝男「火野葦平の自殺 −前夜の訪問者として−」福岡教育大学国語国文学会(編)『福岡教育大学 国語国文学会誌』第19号 1977年(26−31頁)福岡教育大学国語国文学会
■田中艸太郎「火野葦平」日本近代文学館・小田切進(編)『日本近代文学大事典』第3巻 1977年(118−120頁)講談社
■玉井正雄『私の筑豊物語』1980年 歴史図書社
■神西淸「火野さんの文学」石川達三・火野葦平『現代日本文學大系 75 石川達三・火野葦平集』1972/1981年(383−386頁) 筑摩書房
■原田種夫「実説・火野葦平(抄) −『九州文学』とその周辺」石川達三・火野葦平『現代日本文學大系 75 石川達三・火野葦平集』1972/1981年(387−412頁) 筑摩書房
■山田輝彦・鶴島正男(対談)「火野葦平没後30年 『人と文学』を語る」財団法人北九州都市協会(編)『ひろば北九州』No. 71 第4号 1990年(4−10頁)財団法人北九州都市協会
■「ふるさと歴史シリーズ『北九州に強くなろう』No.5 火野葦平」1993年5月『西日本シティ銀行』
■川津誠「『火野葦平』編 解説」川津誠(編)『作家の自伝 57 火野葦平』1997年(307−315頁)日本図書センター
■北九州市教育委員会・火野葦平資料の会(編)『火野葦平文学散歩案内』1999年 北九州市教育委員会
■永井勝「九州名所探訪 4 『花と龍』火野葦平 北九州市 若松」『財界九州』2001年2月号(73−76頁)財界九州社
■「40〜79歳の男女792名に聞いた『死に対する意識と死の恐れ』(PDF)」株式会社第一生命経済研究所 ライフデザイン研究本部 研究開発室 2004年5月
■立松和平・山折哲雄・宮坂宥勝(監修)『日本の生死観大全書』2007年 四季社
■植田康夫『自殺作家文壇史』2008年 北辰堂出版
■山福康政の仕事実行委員会(編)『火野葦平文学散歩地図』2018年 山福康政の仕事実行委員会
■小田雅彦『遺稿詩集&アンソロジー 刻をあゆむ』2019年 ミヤオパブリッシング
■「火野葦平文学散歩」『北九州市ホームページ』