富士山は、静岡県と山梨県の県境に聳える、高さ3776メートル、日本最高峰の山だ。
今現在で日本一高いビルは、東京都港区麻布台に所在する、高さ330メートルの森JPタワーだが、高さはそのおよそ10倍ということになる。そして「桜」同様、我が国日本の象徴でもある。

富士山の魅力と富士登山
富士山の「魅力」とは何だろう。山岳ガイドで巡礼先達(せんだつ/せんだち。道案内や修行の指導を行う者)でもある太田昭彦(1961〜)が『山の神さま・仏さま』(2016/2020)の中で、「富士山を見ながら山を歩いていると、富士山に自分の心が映ることがあります。それは富士山のお陰で開いた『仏性』であると私は思っています。仏性とは何かというと『自分の中にある純粋な心』のこと。山に登るとピュアな自分に戻れるのです」と記している。つまり、必ずしも富士山に関連した宗教を信仰していなくとも、富士山には、「ひと気のない普通の山」以上に「清らかさ」「神々しさ」が満ち満ちている。それは山頂に、常に雪が積もっていること。全体が円錐形で、末広がりになった左右の勾配がほぼ等しく見えることに尽きる。富士山は活火山だが、過去何回もの大噴火を経た後、奇跡的とも言える美しさを保っているのだ。それゆえ今日、SNSでの「映え」を求め、大勢の人々が押しかけている。日本国内において、新型コロナウィルス感染症が「5類」に分類され、それ以前までの恐怖・緊張・危機感…等々から脱した2023年度は、7月1日の山開きから9月30日までの登山者数が、およそ22万人にも及んだ。その中には日本人のみならず、多くの外国人観光客も含まれている。
富士登山には、天候急変がつきまとう。しかも「酷暑」「熱帯夜」の8月であっても、山頂の気温は6〜7度。極端な寒暖差で、高山病にかかる可能性もある。しかもかなりの距離を歩かねばならず、気負った上りよりも、疲れが溜まった下りで、膝を痛めてしまうこともある…静岡県・山梨県の公式サイト、富士山五合目入り口などには、適切な服装・持ち物、そして注意事項などを日本語のみならず、英語・中国語・韓国語で記したパンフレットの配布や立札の設置にもかかわらず、Tシャツ、時に上半身裸に短パン、スニーカーなどの軽装、女性の中には山歩きそのものに不向きなハイヒールを履いている人々も珍しくない。
或いは、「下調べ不足」の「軽い気持ち」で臨んだ登山/下山中に仲間とはぐれ、道に迷ってしまった。救いを求めようにも、スマートフォンは圏外で、電話やWi-Fiも繋がらない…幸い大事には至らなかったものの…という事例も頻発している。また、国立公園で、世界遺産に選ばれたことから、法律で禁止されているにもかかわらず、「寒いし〜」「夜の焚き火は幻想的で…」などと、「悪意なく」たき火をする人たちまでいる。
こうした「トラブル」を引き起こすのは登山客ばかりではない。美しい富士山の「映え」を求め、車が走っているのも構わず、一般道で一心不乱に撮影を続ける。店の頭越しに見える富士山を撮ろうとひしめいて、結果的に「営業妨害」になっている。しかも彼らの撮影した画像や動画はSNSを通じて、世界中に拡散される。それに惹きつけられ、「円安だから、ラッキー!」とさらに外国から多くの人がやってくる…こうした観光客が「トラブル」を起こすばかりではない。世界中からの「観光客」を得るべく、自身の経営するホテルから富士山が見えるようにしようと、勝手に隣人宅の木を23本も伐採してしまった「外国人」もいる。
それだけ、富士山が魅力に富み、「金を生む」場所であり、だからこそますます魅力が増していく…ということなのだろう。それはさておき、富士山は太古の昔から、信仰の対象だった。
縄文時代から始まった富士山信仰
最も古い富士山信仰の「証拠」は、縄文時代中期(5500〜4400年前)のものとされる、静岡県富士宮市の千居(せんご)遺跡だという。そこには、長さ40メートルにも及ぶ帯状の組石を含む、複数の配石遺構が見られ、当時の人々が、遺跡から北東の位置に聳え立つ富士山を遥拝(遠くからお祈りする)していたと考えられている。
万葉集にも登場する富士山
宗教学者で「国家神道」を確立したとされる加藤玄智(げんち、1873〜1965)曰く、「人智の進んでいなかつた昔の人が自然の脅威を前にしては、人の能力や生命は余りにも頼りなく思われたので、深山、名山を見て畏怖と驚嘆とを感じたのであろう。それであの白雪玲瓏(れいろう。玉のように輝くさま)の富士山を見て神として敬い、時に大噴火する猛威におそれ戦(おのの)いたものであろう」と述べていた。そして『万葉集』(7世紀後半〜8世紀後半)巻3の319、高橋虫麻呂(たかはしのむしまろ、生没年不詳)作とされる歌、
…(略)…不尽(ふじ)の高嶺は 天雲も い行きはばかり
飛ぶ鳥も とびも上(のぼ)らず 燃ゆる火を 雪もち消(け)ち 降る雪を
火もち消ちつつ 言ひもえず 名づけも知らず 霊(くす)しくも います神かも
…(略)…日(ひ)の本(もと)の大和の国の 鎮めとも 座(いま)す神かも
宝(たから)とも 生(な)れる山かも 駿河なる 不尽の高嶺は
…(略)…富士の高嶺は 天雲も流れを阻まれ
飛ぶ鳥も飛び上がらず 燃える火を雪で消し 降る雪を火で消し
言いようもなく 名づけようもないほど尊くいらっしゃる神であることよ
…(略)…我が日本の大和の国の鎮めとして いらっしゃいます神であることよ
そして宝にもなれる山だなあ 駿河にある 富士の高嶺は)
を挙げ、古代の人々は富士山そのものを神として崇拝していたことから、富士山にはもともと、「神社」はなかった。「穏やかで美しい」ばかりではなく、活火山でもある富士山は、大噴火を繰り返していた。それに人々は「山神様が怒った」と恐れをなした。当時の国司(こくし。朝廷から派遣された行政官)が禊を行ったり、新しく神社を建てたりすることで、山神様の怒りを鎮めようとしていた、とも指摘した。
浅間神社の建立と山岳宗教の誕生
日本に仏教がもたらされた6世紀半ば以降からは、浅間神社に祀られた、安産の神で火の神でもある「木花咲耶姫(このはなさくやひめ)」は、日本独特の仏教受容形態である神仏習合によって、「浅間大菩薩」とも称され、その本地(ほんじ。神道の八百万の神々の、仏教における本来の姿・仏のこと)は「大日如来」と捉えられるようになった。
それに伴い、富士山をただただ遠くから眺め、拝むばかりでなく、峻厳な山路を歩き、その苦難と命がけの危険を克服して山頂を極めることによって、悟りを開くとされた「山岳宗教」も成立していった。記録に残されている事例として、末代(まつだい、1103〜没年不詳)という僧が1149(久安5)年、山頂に大日寺という寺を建てた。その後彼は山腹の村山(むらやま、現・静岡県富士宮市村山)にも寺を建て、断食行を行った。その後、自ら死を選び、「肉身仏(にくしんぶつ、徳のある高僧は死後も、その肉体が腐敗しないこと)」となって現在、村山浅間神社内に所在する大棟梁(だいとうりょう)権現社の守護神になったと伝えられている。
また、「山」のみならず、噴火で生じた、長さおよそ83メートルにも及ぶ巨大な溶岩洞穴(どうけつ/ほらあな)こと「人穴(ひとあな)」もまた、信仰の対象となった。もともとそれは、「浅間大菩薩御在所」であるとして畏敬されていたもので、狭く、暗く、歩きづらい洞穴内を「産道」と見立てて「死者」となった「自分」が歩き回る。そして苦難の果てに、「出口」に辿り着き、「再び生き返る」という、今日で言う「イマーシブ」こと、没入・体験型イベントではないが、「胎内巡り」が多くの人々に「修行」として行われていた。そうした中、江戸期に盛んになる富士講(こう。富士山に登ることを目的とした、富士山を信仰する農民・職人・商人たちの団体、そしてその活動)の開祖である長谷川角行(かくぎょう、1541〜1646)が人穴に籠って修行していた際、「仙元大日神(せんげんだいにちしん)」からの啓示を得た。そして後に、そこで入滅したという。こうしたことから溶岩洞穴もまた、富士信仰とは切っても切れない「場所」となった。
室町時代から江戸時代にかけてピークを迎えた富士山信仰
室町時代以降、富士山は僧や修験者たちのような「宗教人」ばかりでなく、一般庶民にも信仰の対象となっていった。それは江戸時代にピークを迎える。それは、富士山を遠くに眺めることができる、今日の関東・東海地方の人々から、時に、「登るのが大変」「辛くて苦しい」富士山に登り、頂上まで辿り着くことができれば、災難から逃れられる!願い事が叶う!と、いつしかその「霊現」が信じられるようになったからだという。富士講のメンバーたちは先達に導かれて、菅笠に白装束、金剛杖というお遍路さんのような格好で、鈴を振りながら、中臣祓(なかとみのはらえ。罪・ケガレを清めるために行う神事の際に言う言葉)や『般若心経』などを唱えながら山に登ったという。彼らにとっては、苦しい修行であるばかりでなく、今日の外国人登山者ではないが、「美しい富士山」を目の当たりにしたい!制覇したい!富士山を体感したい…などの「娯楽」「観光」としての行動でもあったのだ。
江戸時代の人々の「富士山」愛は、地域のあちこちに「富士塚」が建立されるほど、強いものになっていった。それは伊勢國一志郡(現・三重県津市)出身の食行身禄(じきぎょうみろく、1671〜1733)の影響による。身禄は江戸で財を成した人物ではあったものの、60歳の時、財産や家族を捨てて、一介の油売りとなる。全国を経巡る中、彼は独自の富士信仰を人々に説いて回っていた。
そうした中、1733(享保18)年、身禄は富士山頂での入定を企図していたが、許されなかった。そこで彼は富士山のおよそ8合目の烏帽子岩(現・烏帽子岩神社。山梨県富士吉田市上吉田)のそばで、組み立て式の厨子(ずし。仏像・経典などを納める戸棚)に入り、31日間の断食業を行なった。彼の入定(にゅうじょう。断食後の絶命。永遠の瞑想に入っているという意味)の話は広く伝わり、より大きな講が誕生・派生していった。
あちこちで作られた富士塚
主に「身禄派」の富士講を組織した人々によってつくられた富士塚は、わざわざ船で運ばれてきた富士山の火山岩を積み上げたものだ。一見、小高く急勾配の「小山」のように見え、登るのに「一苦労」する。古代の古墳があったところや、もともと丘陵地だったところを「富士山」化する場合もあれば、全くの原っぱに、造営する場合もあったという。身禄の弟子だった高田藤四郎(1706〜1782)が高田水(たかだみず)稲荷(現・東京都新宿区西早稲田)の境内に1779(安永8)年、築いたのが始まりだ。それは、遠方ゆえに徒歩で江戸から富士山まで行くことが叶わないお年寄りや子どもたちはもちろんのこと、富士山は1872(明治5)年まで「女人禁制」であったため、多くの女性たちが、実際に富士山に登った「つもり」で、ありがたい富士山の神気を浴び、ご利益をいただける。そして現在の「ボルタリング」ほど大変なものではないものの、日常とは異なる「登山プチ体験」も可能だった「場所」だった。それゆえ、大いに盛り上がった。そのため富士塚は江戸市中のみならず、現在の埼玉県・千葉県・神奈川県にもつくられた。
伊藤博文も愛した富士山
このような「富士信仰」だが、生前、高台から遠くに聳える富士山を眺めるのが好きだった。そしてその地に今も眠る、ひとりの明治の元勲がいた。それは伊藤博文(1841〜1909)だ。
1895(明治28)年の元旦、日清戦争(1894〜1895)の渦中にあった時、伊藤は「日出(ひいづ)という七言絶句の漢詩を詠んでいた。
日出扶桑東海隅 (ひいず ふそうのとうかいのぐう)
長風忽拂嶽雲來 (ちょうふう たちまちがくうんをはらいきたる)
凌霄一萬三千尺 (りょうしょう いちまんさんぜんしゃく)
八朶芙蓉當面開 (はちだのふよう めんにあたってひらく)
(日は扶桑の国 日本の東の空から昇り
大風が見る間に富士にかかる雲を吹き払った
空を凌ぐ1万3000尺の頂上には
八弁の蓮の花が目の当たりに開いて見える)
内閣総理大臣だった伊藤は恐らく、素直に富士山を讃えつつも、日清戦争下にあった日本の国の未来を富士山の素晴らしさに託し、富士山のようであって欲しいとの願いから、この詩をつくったのではないか。
1907(明治40)年から、富士山が見えるところ、東京府荏原郡大井村(現・東京都品川区大井)の別邸「恩賜館」に住まい、周囲を散策していたという伊藤自身、或いはその親たちは、自身の祖先が第7代天皇である孝霊(こうれい)天皇(在位:紀元前290〜紀元前215年)にまで遡ると考えていたようだ。偶然だろうか。葛飾北斎(1769?〜1849)の『富嶽百景』(1834年)内に、「孝霊五年 不二峯出現」という絵がある。それは「孝霊天皇の御代の5年(紀元前286年)に富士山が突然出現した」という言い伝えを描いたものだ。また、浅間神社の総本宮・富士山本宮浅間神社による「御由緒」には、孝霊天皇の世に富士山の大噴火があったと記されている。いずれにせよ、歴代天皇の中で、「最初」に富士山に「関わった」天皇は孝霊天皇だったことは間違いない。それゆえ、「先祖」を思い浮かべる伊藤の心に「富士山愛」を生み、育み、強めていった可能性が大いにある。何はともあれ、幸いなことに現在でも、品川区西大井の伊藤博文墓所近くの高台から、美しい富士山を眺めることができる。伊藤もどこかで、富士山を眺めているのだろうか。
富士山がそこにあること、それ自体に感謝したい
毎年、クリスマスが終わってから新年を迎える頃になると、ネット記事などで多く目にする「予言」「予知」がある。しかもその中は必ずといっていいほど、「富士山大噴火」がある。しかもそれに加え、ここ数年、「2025年7月」に何か、人類に危機的なことが起こるというものがある。何が起こるのかはわからないが、「大地震」「天変地異」「パンデミック」「世界戦争」等々…が全て外れ、来年以降も、美しい富士山が存在すること。そして我々が心身ともに健康で、富士山の美を実際に登ることのみならず、「どこででも」享受できる未来であることを、心から祈りたい。
参考資料
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■「『富士山が見えないからヒノキを枯れ死にさせよう』 《隣人宅の木》に勝手に穴を開けて除草剤を注入、中国資本ホテルの『ヤバすぎる所業』<後編>」『週刊現代』2024年2月28日
■「富士登山オーバーツーリズム対策パッケージ」『環境省』2024年3月8日
■「イマーシブとは?エンタメ業界注目の没入、体験型イベントの事例を紹介」『TRANS』2024年3月19日
■野口大和「校長室より 地域とともにある学校づくり」『品川区立伊藤学園』2024年4月1日
■「外国人観光客が意外な場所に殺到 混乱も 富士吉田市・箱根町 旅行への影響は“次世代型オーバーツーリズム”にどう対応?」『NHK』2024年5月31日
■「富士山の山頂の気温は夏でも寒い? 知っておきたい富士山の天候」『Fuji, Can Go』2024年6月2日
■「上半身裸にハイヒール…富士山登山規制に外国人の反応は 『日本人を優先すべき』の声も」『ENCOUNT』2024年7月10日
■「富士山の神社といえば!富士浅間神社の9社巡りで歴史を感じる」『aumo』2024年8月30日
■関東地方環境事務所「2024年夏期の富士山登山者数について(お知らせ)」『環境省』2024年9月30日
■「伊藤博文墓」『品川区』2024年11月1日
■「『私たちは日本の警察には捕まらない』…隣人のヒノキを無断伐採した《富山が見える中国資本ホテル》の実行犯が逮捕、実刑判決も中国人経営者は『国外逃亡』<前編>」『週刊現代』2024年12月5日
■「『富士山が見えないから切った』…《中国資本ホテルによる隣人宅ヒノキ伐採事件》実行犯逮捕の翌日に『日本脱出』した経営者の『正体』<後編>」『週刊現代』2024年12月5日
■「【富士山】雪化粧が映えるシーズン到来…外国人観光客押し寄せマナー違反問題化した撮影スポットは今(静岡)」『Daiichi TV』2024年12月10日
■「富士山絶景、訪日需要取り込みへ 撮影スポット開設続く “映え”求めた観光公害も深刻化」『産経新聞』2024年12月25日
■「伊藤博文別邸跡」『ココシル品川』
■『静岡県世界遺産センター』
■『世界遺産 富士山とことんガイド』
■「世界遺産 富士山を知る」『山梨県』
■「浅間神社」『国土交通省 中部地方整備局 富士砂防事務所』
■「漢詩紹介 伊藤博文」『公益社団法人 関西吟詩文化協会』
■「御由緒」『富士山本宮浅間神社』
■「千居遺跡」『文化遺産オンライン』
■「富嶽百景/富岳百景 −葛飾北斎− 《孝霊五年不二峯出現》」『みんなの知識 ちょっと便利帳』
■「富士講と歴史」『富士山八合目 元祖室』
■『富士山五合目観光協会』
■『山梨県立世界遺産センター』