「私にとつての記念碑的作品」「文字どおり生命を賭けて描いた作品」であり、「生涯に二度あろうとも考えられぬ運命的な體驗でもあつたので、その當時の思い出は胸の奥底に染みついている」という『麦と兵隊』(1938年)、『土と兵隊』(1938年)、『花と兵隊』(1939年)、いわゆる「兵隊三部作」を著した作家・火野葦平(1907〜1960)は、「残酷!」「軍国主義者!」のレッテル、そして国威掲揚、戦争賛美における「戦争責任」を、敗戦後、日本に平和が戻ってから、その自死に至るまで、否、今日もなお、それらのレッテルは剥がされることなく、弾劾され続けていると言っても過言ではない。
※画像は火野葦平が眠るお墓
兵隊三部作は本当にレッテル通りの内容だったのか?
しかし、「兵隊三部作」には、豪放磊落に自身を見せつつも、心の奥底に潜む繊細さ、そして人を愛する心に満ち溢れた火野の文才を持ってしか表現し得ない文学性が存在した。
1937(昭和12)年末から翌年4月まで駐屯した、現在の浙江(せっこう)省北部にある古都・杭州(こうしゅう)での日々を記した『花と兵隊』において火野は、ある時、5〜6人の兵隊、そして現地の教養人・肅(しゅく)青年とその妹・靑蓮(せいれん)と共に、杭州の名所のひとつである西湖の西北に架かる西冷橋(せいれいきょう)のほとりで半日ぐらい過ごした折のことを記している。
『花と兵隊』を記した当時の様子
晴れ渡った空の下、鶏のすき焼きを食べ、酒を飲んでいたら、みんな、ぽかぽかと照る太陽が心地よくて、草の上で眠り出していた。火野がぼんやりと、鴨が泳ぐ水面を眺めていたところ、横になっていた靑蓮が急に、「そこの少し先に、蘇小小の墓があります。行ってみませんか」と誘ってきた。しばらく歩いたところに、青い瓦と赤い柱のお堂があった。中央に饅頭型の墓がある。火野と靑蓮が近づいていくと、既に傾いていた太陽に照らされ、墓の頂がきらきらと光った。それがセメントで塗り固められていたことに、火野は少々興醒めだったが、驚いたことにそれは、大理石か何かの滑らかな石のように、艶やかに光っていた。
靑蓮は敬虔な面持ちで、その墓の頭を静かに何度もなで回していた。蘇小小の墓をなでると美人になる、または思う人に会える、いい子が生まれるなどの伝説があるという。多くの人が墓をなでたことから、セメントの墓の頂が光っていたのだ。堂宇(どうう)を出た2人は、湖のそばにあるベンチに腰を下ろした。そこで靑蓮は静かな口調で、独り言のように、蘇小小のことを語り出した…。
蘇小小(そ・しょうしょう)とは
蘇小小とは、『銭塘(せんとう)蘇小歌(蘇小小歌)』と題された作者不詳の古歌謡において、「私は青い雨よけを張った車に乗り、あなたは芦毛の馬に乗る。どこで夫婦の契りを結びましょうか。西陵(銭塘県西部一帯か)の、冬にも枯れない松や檜(ひのき)の下で」と歌われた、中国南斉時代(5世紀末頃)、かつて杭州に存在した県・銭塘の名妓のことである。
長らく忘れ去られた存在だったが、安史の乱(755〜763年)以後の中国国内の政治社会状況の劇的変化に伴い、かつて風雅を誇った江南地方の民歌や、六朝(りくちょう、280〜317年)時代につくられた詩への関心が高まった唐代(618〜907年)中期以降、「杭州」を代表する人物として多くの文人たちに愛でられ、彼女をモチーフにした作品が数多く生み出された。
そして蘇小小の墓は、『花と兵隊』に記されているように、西湖周辺の西冷橋のほとりに存在した。しかしそれは早くとも宋代(960〜1279年)以後に立てられたものだったようで、瓦葺きの屋根をかけた4坪ほどの六角形のあずま屋の中にあった。墓そのものは漆喰塗りの土饅頭で、高さは4尺(121cm)ほどだったという。それ以前は銭塘県の役所の背後にあったというが、それは西冷橋のほとりではなかった。火野が見た墓は戦中戦後の混乱の中、失われていたのだが、2004(平成16)年に再建された慕才(ぼさい)亭というあずま屋の下に、新しく整えられた「錢塘蘇小小之墓」が存在する。
錢塘蘇小小之墓とは
靑蓮が火野に言うには、蘇小小の美しさは、中国にある無数の形容詞をもってしても、称え尽くされないほどだった。しかし、彼女の生涯を知る者は誰もいない。謎めいた伝説があるだけだという。
彼女はこの世を去ってから、何か思い残したことを忘れかねたように、花が咲く頃になると、しばしば月の下や花の陰に、または黄昏の西湖の水辺に、楚々とした姿を現し、月琴をかなで、憂いを含んだ声で歌を歌いながら彷徨っていた。
年を経て、宋の時代に、標才仲(ひょう・さいちゅう)という青年がいた。ある時彼が昼寝をしていたところ、夢の中にひとりの美しい女が現れ、悲しげな声で歌を歌った。
岸邊(きしべ)戀(こい)しやふるさとに
花落ち開き幾星霜
燕子(つばめ)飛びかひ春去れば
紗窓(しゃそう)さらさら宵の月
才仲と蘇小小との出会い
才仲は陶然としながら歌声に耳を傾けていたが、歌が終わって、女を見上げると、霞のように消え失せてしまった。才仲は女のこと、そしてその歌を忘れかね、自分でそれに曲をつけて何年も歌っていた。
そんなある月の明るい夜のこと、才仲の前に、夢に出てきた美しい女が再び現れた。それは蘇小小だった。小小は才仲に契りを結ぶことを求めた。それから毎夜のように、小小は才仲を訪ねてきた。一人寝の才仲の寝所から、楽しく語らう声が聞こえてくるのを不思議に思った友人たちが中の様子を伺ったところ、そこには才仲しかいない。みんなが心配しているうちに、元気だった才仲は寝込んでしまった。
そして別れ
ある月の美しい夜、湖畔につないでいた才仲の舟に、重病で起き上がれないはずの彼が輝くばかりに美しい女とともに乗り込んできた。舟にはその時、誰も乗っていなかったのだが、櫂(かい)の音を聞いて、船頭が驚いて湖畔に出てみると、2人が乗っている。船頭が才仲の名前を呼ぶと、突然、舟から真っ赤な火が上がった。そして舟は湖の底に沈んで行った。船頭は2人が沈みゆく舟から逃げ出そうともせず、たとえようもなく満足げな笑みを浮かべているのを見た。
動転した船頭が才仲の家に駆けつけたところ、息を引き取ったばかりの才仲の周りを、家族の者たちが取り巻いて、嘆き悲しんでいた。
それから2度と、蘇小小を見た者はいない。才仲の屋敷跡はなくなってしまったが、かつて蘇小小の墓は、そのすぐそばにあったという。
最後に靑蓮は、「ひょっとすると、今私たちが並んで話しているここらで、蘇小小と標才仲が不思議な恋を語ったことがあったかもしれませんよ」と、いつにない冗談を火野に言って、話を締めくくった…。
参考資料
■火野葦平『花と兵隊 杭州警備駐留記』1939年 改造社
■河盛好蔵「解説」火野葦平『花と兵隊』1939/1953年(193–196頁) 新潮社
■火野葦平「解説」火野葦平『火野葦平選集 第2巻』1958年(399−442頁) 東京創元社
■田中艸太郎「火野葦平」日本近代文学館・小田切進(編)『日本近代文学大事典 第3巻』 1977年(118−120頁)講談社
■高橋義孝「人と文学」尾崎士郎/火野葦平『筑摩現代文学大系 46 尾崎士郎 火野葦平集』1978年(471−485頁)筑摩書房
■紅野敏郎「火野葦平 著作目録」石川達三・火野葦平『現代日本文學大系 75 石川達三・火野葦平集』1972/1981年(424−426頁)筑摩書房
■川津誠「『火野葦平』編 解説」川津誠(編)『作家の自伝 57 火野葦平』1997年(307−315頁)日本図書センター
■植木久行「名詩のふるさと(詩跡)」松浦友久(編)『漢詩の事典』1999年(293〜571頁)大修館書店
■川西政明『新・日本文壇史 第6巻 文士の戦争、日本とアジア』2011年 岩波書店
■瀧本弘之(編)『遊子館シリーズ 5 中国歴史名勝図典』2011年 遊子館
■彭腊梅「唐代文学における蘇小小の再発見」九州中國學會(編)『九州中國學會報』Vol. 51 2013年(16−30頁)九州中國學會
■木田知生「西湖」尾崎雄二郎・竺沙雅章・戸川芳郎(編)『中国文化史大辞典』2013年(675頁) 大修館書店
■松家裕子「蘇小小」尾崎雄二郎・竺沙雅章・戸川芳郎(編)『中国文化史大辞典』2013年(770頁) 大修館書店