故人とはさほどの関係ではないが社会的な関係、いわゆる「義理」で葬儀に参列することがままある。また都合で参列できない家族の代理で赴くこともある。いずれも人の死に向き合いそれなりに厳粛な心持にはなるものの、時間や記憶を共有したことのない人の葬儀に対して事務的な感覚であることは否定できない。朝、テレビの殺人事件・災害報道に触れた時に痛ましい気持ちにはなる。しかし次の瞬間、そんなことは忘れて日常に戻る。それは家族でも友人でも同僚でもない本当の意味での「他人」だからである。家族・友人らが事件・事故の当事者であればそうはいかない。この感情は身勝手なものだろうか。
ラビオ君とハマノパレード
サッカー ワールドカップ(W杯)ロシア大会を巡り、北海道小平(おびら)町のミズダコ「ラビオ君」が日本代表の1次リーグ3試合の結果予想をすべて的中させ、話題を呼んでいた。小平町はタコ箱を使ったミズダコ漁が盛んで、地元漁師の男性が特産品を広く知ってもらおうと思いついたものだ(毎日新聞 2018/6/29)ところが「ラビオ君」は決勝トーナメントを待たずして出荷されてしまった。これに対し世間から「かわいそう」という声が殺到した。
これに似た事例が「ハマノパレード」騒動だ。ハマノパレードは、1973年に宝塚記念を制した日本の競走馬である。しかし次に出走した高松宮杯で骨折・予後不良となり、翌日屠殺され物議を醸した。また、その馬肉は同日中に「さくら肉」『本日絞め』400キログラム」という品目で市場へ売りに出されたことがスポーツ新聞に取り上げられ、大きな反響を呼んだ。
タコといい馬といい、我々人間はこれを食している。漁師にすれば商品を出荷するなというのも無茶な話であるし、そういう人たちはタコを食べたことはないのか、勝手なことを言うなと言いたくなる。残酷だと思う一方、その口で馬刺しに舌鼓を打つことも現実だ。その上で食用のタコにも関わらず「ラビオ君」がかわいそうと思う心情も理解できるものだ。それはもはや他人ではないからだ。
儒教の「別愛」
こうした他者に対する心の距離による愛情の格差について、中国思想の主流を占めた儒教(家)の大家 孟子は、ある国の王が儀式の生贄のために引かれていた一頭の牛の怯えた様子を見て忍びず、「この牛の代わりに羊を用いよ」と命じたという話をしている。孟子は、王はこの哀れな牛と目が合ってしまい心を動かされた。一方、羊の方は観念的・抽象的な存在であると語った。また孟子はこの事例を「君子は調理場に離れた場所に立つ」とも表現している。
「ラビオ君」やハマノパレードはかわいそうで、寿司のネタとしてのタコ、馬刺しの馬肉を食べるのはなぜか。メディアの報道を受けても、一般人の凶事より、著名なアスリートやアーティストの死の方が遥かに衝撃的だろう。面識はなくとも心の距離が違うからだ。心の距離が近い程、情は厚く、遠くなるにつれて薄れていく。
儒教では心の距離は親を頂点とした近親者を最も近いとしている。それ故、最も近い親の葬儀は華美に過ぎるほどの装飾と演出が行われる。加地伸行はこの価値観を「別愛」と呼んだ。前回、位牌について論じたが、日本の祖先供養の形態は儒教の影響が大きい。日本でも親の葬儀を立派あげることが子の美徳であった。日本の葬儀の根底には「別愛」があったのだ。
墨子の「兼愛」
この「別愛」と葬送儀式を批判したのが墨子である。墨子は儒教の家族重視の考えを「偏愛」と呼び批判した。墨子は全ての人を分け隔てなく平等に愛する無差別無平等の思想「兼愛」を説く。現代なら「博愛主義」と言えばわかりやすい。墨子によれば儒教の「別愛」は利己主義である。「ラビオ君」の例にとればなぜ「ラビオ君 」だけ特別扱いなのか、「ラビオ君」を愛するなら全てのタコを愛するべきだということになる。
ここから葬儀批判につながる。墨子は「節葬編」で、富は生きている者にこそ使うべきであり、葬儀などに使う富は最小限に留め、貧しき民衆を救うべきであるなどとしている。「自分たちさえ良ければ」ではいけないというわけだ。
墨子の批判は、経済的な負担などから葬儀を不要とする論調や、災害時における「絆」が叫ばれるなどの現代の論調に先んじているものがある。しかし理想的にも思える。
心の距離が近い人と他人はやはり違うだろう。その勝手さが神ならぬ人間のリアルな心情ではないだろうか。兼愛主義が実現できれば戦争も差別もなくなるが、そもそも無理がある。
「別愛」を否定すると、孟子が王と牛の例で指摘するように、親しい人の死も観念的になりかねない。もちろん他人に無関心であれというのではない。ここは難しい問題である。
最後に…
孟子も心の距離で身内と他人の間に格差をつけてそれで良しとは言っていない。心の距離は近い者から遠い者へ拡大していくべきだと説いている。神ならぬ人間としては「兼愛」を理想として「別愛」を少しずつ拡大していくしかない。
そうした中、現代はテレビのニュースを見て終わりという時代ではなくなった。SNSなどによって被災者の声がより身近に伝わり、心の距離は拡大しているという見方もできる。先人の教えはネット社会でいかに展開していくだろうか。