高齢社会の現代、「終活」が広く一般的に認識されるようになってきました。
「終活」とは人生のフィナーレとも言える死について、生前から真摯に向き合い、考えておくものです。
エンディングノートと呼ばれるものも広まっています。死後、自分の葬式はどうしてほしいか、遺産をどうすべきか等、様々な希望を生きている内に書き残しておくノートです。
法的拘束力は無いが、やがて訪れる人生の最期について真剣に考え、向き合い、遺される者に自分の希望を伝える意図があります。
死をポジティブに捉える「終活」
私達は人生の最期をどう締めくくるのか、自分がいなくなった後、私達は何を遺せるのか。
生き物は皆いつか死にますが、死に対して何の恐怖も悲しみも感じない者は稀でしょう。
誰だって死は怖く、悲しい。死にはネガティブなイメージが付き纏います。ですが、「終活」は死をネガティブなもののみに捉えてはいません。「終活」にはポジティブな希望が含まれています。
「自分が死んでも、残された家族に悲しんでほしくない」、「葬式に大金を使わないでほしい。死に逝く者ではなく、残された未来ある者達の為に使ってほしい」-。
このように考える高齢者は多いのではないでしょうか。
しかし一昔前は、故人の遺志に関わらず「明るい死」や「身内だけの小さな葬儀」は非現実的でした。大切な人を失った混乱の中、必要性のわからない品や儀礼に大金を払い、普段は関わりのない人達も呼ばなければならない従来の葬儀に疑問を感じる人は多かったでしょう。
公に口に出すのは憚られたのでしょうが、現在は世の中にも新しい考え方が広まり、希望ある死としての「終活」が受け入れられてきています。
「家族葬」が流行しています
そんな現代では「家族葬」というスタイルが、従来になかった新たな選択肢のひとつになっています。
形式上の付き合いしかなかった人々に囲まれるより、少数の身内のみで温かく見送られたい人は多いでしょう。
実際問題、大切な人の葬儀をきちんと行いたくても、この不景気のご時世では高額な費用を負担できず困ってしまう人も多いのです。
そういう人達の境遇と心情の両方に配慮出来るのが「家族葬」だと筆者は考えています。
こんな話はナンセンスですが、生前ほぼ関わりがなかった人の葬儀に参列するのは何とも所在ないものです。
私のような者が来て故人は嬉しいか、却ってご迷惑にならないだろうか。何より、このような気持ちで参列して良いものなのだろうか……。なんとも申し訳なくなり、居心地の悪さを感じてしまいます。
そんな小心者ゆえか、自分が亡くなる時は「家族葬」でお願いしたいと考えています。
ノーベル平和賞を受賞した国際NPO、国境なき医師団(MSF)は遺産・相続財産・香典の寄付を受け付けています。
充分な医療を受けられない子ども達や、被災し苦しんでいる人々の為に寄付し、「次の命へつなげよう」というのです。
賛否が分かれそうな仕組みではありますが、筆者は非常に好意的に見ています。
筆者はもし自分が亡くなったとしても、高い花や立派な戒名に大金を支払うより、次の時代を担う未来ある若者達の為に使ってほしいと思います。このような選択肢が受け入れられてきたことも喜ばしく思うと同時に、これも立派な「終活」のひとつではないでしょうか。
考えてみれば、生前から死後を想定し、自分にとってベストな方法を選べるとはなんて恵まれたことでしょう。誰だって愛する人を失うのは悲しいのですが、置いていく方もまた悲しいものです。
だがその悲しみの中で、故人の生前の願いを叶えることが出来たなら、故人が最も幸せであろう方法で送り出すことが出来たなら……、それこそ人生の大団円だと、胸を張れるのではないだでしょうか。
悲しみに満ちたネガティブな死ではなく、希望を含むポジティブな死。現代に生きる私達は「終活」が出来る境遇に感謝し、真摯に向き合ってみたいものです。