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死刑に処された野口男三郎が遺した、一世を風靡する程に大ヒットしたある歌

大正時代から現在まで、サーカス、チンドン屋がアコーディオンで奏でる「あの」、懐かしくもどこか物哀しいメロディーをご存知だろうか。もともとは『美はしき(うるわしき)天然』または『天然の美』というタイトルで、小・中学校で盛んに歌われていた唱歌である。1902(明治35)年につくられたこの歌を作詞したのは国文学者で詩人の武島羽衣(1872〜1967)。作曲は佐世保海兵団学長を務めた田中穂積(1855〜1905)である。

死刑に処された野口男三郎が遺した、一世を風靡する程に大ヒットしたある歌

「天然の美」と「夜半の追憶」

    空にさえずる鳥の声
    峰より落つる滝の音
    大波小波とうとうと
    響き絶えせぬ海の音
    聞けや人々面白き
    この天然の音楽を
    調べ自在に弾き給う
    神の御手の尊しや

しかしこの歌は1905(明治38)年に「臀肉切り・人肉スープ事件」を引き起こしたとされる死刑囚・野口男三郎(おさぶろう、1880〜1908)をイメージした替え歌、『夜半(よは)の追憶(おもいで)』となって、2度も爆発的なヒットを飛ばしたのである。

    ああ世は夢か幻か
    獄舎(ひとや)にひとり思い寝の
    夢より冷めて見回せば
    四辺(あたり)静かに夜は更けて
    月影淡く窓に射す
    ああこの月の澄む影は
    露いと滋(しげ)き青山に
    静かに眠る兄君の
    その墳墓(おくつき)を照らすらん…

野口男三郎の生い立ち

野口男三郎こと旧姓武林男三郎は、大阪市西区新町で、衡器(こうき、量りのこと)製造を生業とする家の三男として生まれた。桃山英学校(現・桃山学院中学校・高等学校)を卒業後、1897(明治30)年に上京。麹町在住の動物学者・石川千代松の家に下宿し、高等商業学校附属外国語学校(現・東京外国語大学)の露語科に通っていた。近所に漢詩人の野口寧斎(ねいさい、1867〜1905)が住んでいたことから、男三郎はその妹・そゑと恋仲になった。4年後には男三郎はそゑと結婚し、野口家に住み込むようになった。

男三郎自身は逮捕当時、警察の取調べの際には罪を認め、自白したものの、裁判の中でそれを覆す発言をした。しかも当時は現在のようなDNA鑑定などの科学的な捜査が不可能だったことから、今となっては「真実」はわからない。しかし当時の男三郎はまじめに学業に励むことなく、いつしか学校にも行かなくなった。何度も落第を続け、ついには退校処分を受けた。そゑと別れたくなかった男三郎は、周囲に通学している風を装っていた。

野口男三郎の犯行動機

しかし、男三郎の無為徒食ぶりを見抜けぬ寧斎ではなかった。しかも通っているはずの大学の「卒業」の日は迫ってくる。寧斎と男三郎は多々衝突し、そゑとの離婚を迫られることがあった。何とか対面を取り繕おうと男三郎は、以下の犯罪を犯したとされている。

1902(明治35)年に男三郎は、人肉を手に入れようと企てていた。それは野口家にあった中国の古い書物に、ハンセン病には人肉が効くと書いてあったからである。病に罹患していた寧斎の病気を治すためだったのか。それによって、何とか寧斎に気に入ってもらいたい一心だったのか。或いは当時、原因不明の難病とされていたハンセン病に、妻そゑまでもが罹患することを防ぎたかったためだったのか。言うまでもなく人肉は、簡単に手に入るものではない。そのため男三郎は、印刷工見習いをしていた11歳の少年を家の近所で殺した。そしてその遺体から左右の臀部を切り取り、スープにして寧斎とそゑに飲ませた。

その翌年に男三郎は、退学になっていた東京外国語学校(現・東京外国語大学)校印と校長印を偽造し、本科の露語科の卒業証書および、同校別科の獨逸語科の修業証書を印刷屋に作らせた。それは寧斎らからの信用を得るためばかりではなく、この年に、そゑとの間に娘ができたことから、絶対野口家を追い出されたくなかったのかもしれない。

逮捕された野口男三郎

1905(明治38)年には、男三郎と寧斎との間での衝突が激化し、男三郎はそゑとの離縁、そして野口家からの立ち退きを命じられていた。しかも男三郎は日露戦争(1904〜1905)に通訳として従軍すると嘘をついていたが、その嘘が寧斎に見破られてしまった。一旦家を飛び出していたものの、寧斎を恨みに思っていた男三郎は、密かに家に忍び込み、寧斎を絞殺してしまう。しかし家族の人々は、かねてから寧斎が病弱であったことから、他殺であるとは思わず、病死したと思い込んでいた。

更に男三郎は日露戦争従軍を野口家の人々に真実であると思わせるために、ある軍人が満州から金の延べ棒を持ち帰り、それを格安の350円で売りたがっているなどという与太話を餌に、あちこちへ金策に走り回る。それに近所の薬局に勤める老人男性が引っかかり、当時はひと気がない雑木林だった豊多摩郡代々幡町(現・渋谷区)に連れ出すことに成功した。男三郎は暗がりを歩く男性の背後から首を絞め、金を奪った。そして男性が自殺したように見せかけるため、道端の栗の木の下に遺体を横たえ、首に荒縄を巻いて、あたかも首吊り自殺した後、地上に墜落したかのように装った後、逃亡した。そして奪った350円を使って、将校の軍服、帽子、サーベルなどを整えた。

男三郎は大陸に渡り、残った金で数ヶ月遊び回った後、戦塵を浴びた通訳官として野口家に戻れば、自分は晴れてそゑの夫としてふさわしい人間として迎えられると目論んでいたのだ。しかし「祝出征」の旗と共に飯田橋駅に向かおうとしたところで、男三郎は逮捕された。逮捕の決め手となったのは、薬屋の老人は耳が全然聞こえなかったため、筆談でやりとりした紙がそのまま老人の家に残されていたためだったという。

野口男三郎の公判

裁判にかけられた男三郎には当時、名弁護士で有名だった花井卓造(1868〜1931)がついた。花井は既に埋葬されていた寧斎の遺体を掘り起こし、その死因は脳溢血だったことを医師に証明させた。また、臀肉事件に関する証拠が全くないことを名弁論によって喝破したことから、男三郎にかけられていた寧斎と少年殺しは無罪となった。しかし最終的に、証拠があった薬屋の老人殺しと卒業証書の偽造が罪に問われ、1906(明治39)年、東京地方裁判所で死刑を宣告された。男三郎は上告したものの、翌年には東京控訴院、そして大審院に棄却され、死刑が確定する。裁判の間中、センセーショナルな事件の動向、花井弁護士の名弁論ぶりや、妻のそゑが男三郎を思って泣き暮らしていることも逐一、新聞紙上で報道された。

それらに目をつけた「演歌師」が男三郎をモチーフにした歌をつくった。冒頭に紹介した『夜半の追憶』は日本全国で大ヒットし、幼い子どもまでもが口ずさむほどだったという。更には、あまり流行らなかったものの、妻そゑの心を歌った続編までもがつくられた。

「演歌師」の「演歌」とは、現在の我々が知る「演歌」とは必ずしも同じではない。明治中期、書生姿の自由民権運動の壮士たちが街頭で演説代わりに歌いながら、その歌詞本を売っていた「壮士節」が始まりとも、明治24(1891)年に大流行した川上音二郎(1864〜1911)の『オッペケぺ節』が第一号とも言われている。歌詞は時局や世相風刺の歌詞で、それを昔ながらの語り物風や俗曲風の旋律に乗せて、当時量産され、一般にも普及し始めていたヴァイオリンやマンドリン、手風琴(アコーディオン)、ハーモニカなどに合わせて歌っていた。過激な内容を含んでいたことから、当時の警察から厳しく監視されてもいた。昭和初期になって、ラジオの普及やレコード歌謡が世間に浸透したことから、街頭などに立ったり、市中を歌ったり演奏しながら歩いて回るような「流し」を行う「演歌師」そのものは、自然に廃れてしまった。

激動の時代を経ても、消え失せることがなかった「夜半の記憶」

作詞家で歌謡曲研究家の西澤爽によると、『夜半の記憶』の歌詞の中には、男三郎に対する憎悪は全く現れていない。ひたすら罪を悔いる男三郎を歌っていたと指摘する。またそうした歌詞の内容ゆえに、男三郎の死後およそ10年後、大正デモクラシーが盛んになった1916(大正5)〜17(大正6)年頃からリバイバルヒットした。当時は社会主義、共産主義、そしてダダイズムなどの新思潮が台頭し、お上の権力に低頭していた明治とは民衆の社会意識が変わってきていた。ちょうどこのリバイバル前後の1918(大正7)年には、警察対民衆の全国的騒乱である米騒動が起こった。まさにこの歌は男三郎事件の猟奇的流言は薄らぎ、それどころか、無実の罪を背負わされて絞首台に立たされたとして男三郎に対する同情心、そして国家権力に対する民衆的反発の機運を大いに盛り上げ、また、この歌によってその気持ちを更に鼓舞していたものと考えられる。

従って男三郎の事件、そしてそれを歌った『夜半の追憶』は、大正、昭和と時を経て、その間、関東大震災、2度の世界大戦を経た後も、消え失せてしまうことはなかったようである。

終戦間際から終戦直後の混乱期かつ食糧難だった1945(昭和20)年の5月から翌年の8月までの間に、「安く米を売ってくれるところを紹介する」などと巧みな言葉で誘い出し、10名の女性を乱暴した上、首を締めて殺した「殺人鬼」こと、小平義雄(1905〜1949)は作家の江崎誠致(1922〜2001)に、辞世の言葉を届けた。

    ああ世は夢か幻か
    獄舎に独り思い寝の
    夢より醒めて見渡せば
    あたり静かに夜はふけて
    月影淡く窓に射す
    過去の罪を懺悔して
    裁きの庭に出る月を
    指折り数えて待つ身なり
    思えば一年三月前
    空襲下の各駅の
    人の集まる行列の
    若い婦女子を誘いだし
    今は買出し山の中
    死出の旅に一歩ずつ
    つぎからつぎと殺害し
    後日あらわる屍を
    今日は囚の身となりて
    裁きの日をば待つばかり

小平義雄と野口男三郎

江崎は男三郎の歌の途中から付け加えられた小平の詩を見て、変な気持ちになったという。それは小平自身が自分の罪を懺悔しているのか得意になっているのかわからなかったからである。死刑囚が和歌を詠んだり詩をつくったりすることに対して、江崎はいいとも悪いとも思っていなかった。それは罪を悔い、感傷的な歌や詩をつくろうとも、悪党らしく冷然と構えていたとしても、その人間が犯した犯罪自体には何の変わりもない。しかも死刑囚であれば、己の死を前にして、自分自身に何らかの形で決着をつけるべく、いつ死んでもいいと心の準備をするか、或いはそれができずにもがき苦しむか、そのいずれかだと、第2次世界大戦中に生きるか死ぬか、極限状態だったフィリピンでの従軍体験を有していた江崎は考えていた。しかしそのような江崎にも理解不能で、小平は先に挙げた「死を前にした死刑囚」の2つのタイプとは異なり、「被害者たちへの嘲笑と、彼自身への感傷が、混りあって出来たもののような気がしてならない」と結論づけていた。自分自身をイメージしてつくられた歌が忘れられることなくおよそ40年間生き続け、更に自分自身の思いを重ねて新たな詩を作った犯罪者・小平義雄に対し、男三郎はもし生きていたとしたら、どのような気持ちを抱いたであろうか。

死刑が執行された野口男三郎と、その教誨を務めた田中一雄

1908(明治41)年7月2日、男三郎は死刑執行された。男三郎の教誨を務めた田中一雄によると、入獄から1年ほどの間に『夜半の追憶』で世間の耳目を集め出すにつれ、男三郎はだんだんと傲慢な態度を現すようになってきた。そのことから田中は、折を見て男三郎の性質を改めようと思っていた。男三郎の死刑が確定した1906年の年末に田中は、1336(建武3)年に楠木正成(1294?〜1336)が足利尊氏(1305〜58)の率いる50万の大兵と湊川(みなとがわ)で戦うことになった時、渡来僧・明極禅師(みんき、1262〜1336)と対面した際のエピソードを男三郎に語った。

楠木正成は禅師に、「死ぬか生きるか2つに1つの場合には、いかがしたらよろしいでしょうか?」と尋ねた。すると禅師は「両頭裁断して、一剣天に倚(よっ)て寒(すさま)じ」と答えた。その意味は、生死の2つを斬り捨ててしまえば、剣のひと振りは天命によってすさまじい一撃となる、という意味である。それに対して正成が「両頭を切断したらどこへ落ちますか?」と尋ねたところ、禅師は大声で一喝した。「生死の両念を打ち捨ててしまえば、どちらに落ちるといったことに、意味がない。天の剣がヒラリと光ることこそが、生死解脱の要領である。分別はいらない」と言った。その言葉に正成は、身体中から汗を流した。そして起立して禅師に三拝した。その様子に禅師は「よろしい」と言った…。

この話をして初めて、男三郎に宗教の観念を与えることになったと田中は述懐していた。それまで男三郎は、桃山英学校に通っていたことから、漠然とキリスト教を信じてはいたが、それは極めて薄弱なものだったという。

最後に…

その後、死に臨んだ際に男三郎は、田中に辞世の漢詩と歌を残している。
    多年飄泊未成家
    老幼空余鏡上萃
    世路之危々似刃
    人情之薄於縛 (注:原文のまま。七言ではなく六言)
    功名富貴一場夢
    得失窮通三日死
    劫憶烟簑伍鴎鷺
    釣磯今索旧汀砂
    帰る身に心残りのあらざれば 
    書くこともなく言ふこともなし

今後も凶悪犯罪、そしてテレビや週刊誌、そしてインターネット上で面白おかしく取り上げられる犯罪者は後を絶たないだろう。そうした中で、何かのきっかけから、『夜半の追憶』的な替え歌がつくられるかもしれない。しかし今はインターネット社会でもあり、多様化・個別化の時代だ。それゆえに、かつてのように、小学生からお年寄りまで、全世代の人々の心を掴み、その時代そのものを物語り、歌い続けられていく歌が存在し得なくなっている。それがいいのか悪いのかわからないが、少なくとも『夜半の追憶』は男三郎という人間、そして彼がなしたとされる犯罪を超え、明治という時代、そしてリバイバルした大正時代という時代のある一面をダークサイドから彩り、それゆえに人々を強く惹きつけた歌だったことだけは間違いない。

参考文献

■丘灯至夫『歌暦五十年』1954年 全音楽譜出版社
■木下宗一『号外近代史 第2部』1954年 同光社
■江崎誠致「戦後異色人物探検 2 小平義雄 上」『週刊現代』1962年1月14・21日合併号(68−72頁)講談社
■江崎誠致「戦後異色人物探検 2 小平義雄 下」『週刊現代』1962年1月28日号(86−90頁)講談社
■加太こうじ『東京事件史 明治・大正編』1980年 一声社
■倉田喜之「流し」小林新造・陣内秀信・竹内誠・芳賀徹・前田愛・宮田登・吉原健一郎(編)『江戸東京学事典』1987年(809−810頁)三省堂
■西澤爽『日本近代歌謡史 下』1989年 桜楓社
■豊田清修『思い出の歌謡物語 明治から昭和まで』1993年 中央アート出版社
■澤野雅樹(解説)『犯罪研究資料叢書 2 犯罪法廷ケースブック 2』(石渡安躬(1933年)『斷獄實録 第2輯』復刻版)1996年 皓星社
■布施辰治(著)・前坂俊之(監修)『近代犯罪資料叢書 7 死刑四十一話 死刑囚の記録』1998年 大空社
■入江宣子「演歌」福田アジオ・新谷尚紀・湯川洋司・神田より子・中込睦子・渡邊欣雄(編)『日本民俗大辞典 上』1999年 吉川弘文館

■「夜半の追憶(男三郎の唄)塩原秩峰」

ライター

鳥飼かおる

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