彼岸を終えたばかりでまだ少し先ではあるが夏の盆では、きゅうりや茄子といった野菜に棒で脚を付け、馬や牛に見立てる風習がある。この風習の由来として、しばしばいわれるのが、次のようないわれである。
先祖の魂が戻って来るときは早く帰ってきて欲しいから、先祖の魂をきゅうりの馬に乗せてお迎えし、帰りは落ち着いてゆっくり帰って頂けるよう茄子の牛に乗せてお送りする。
しかし、このいわれについて考えてみると、不思議な点が幾つかある。
人が乗る動物として、そもそも「牛」は一般的か?
これは生きた人間の生活を、祖霊信仰の世界に当てはめたものであるわけだが、人間が馬に乗ることは「ごくごく普通のこと」である。しかし、牛に荷を担がせたり引かせたりするのは、往時は普通のことであったが、騎乗するのは昔も今も、一般的なこととは言いがたい。
理由は、一つにはまさに「馬と違い、落ち着いて乗れないから」である。従って筆者には、「先祖の魂がゆとりを持ってあの世に帰れるよう、牛に乗せる」という説明は、生きた牛が身近にいない人が考えたように思われる。
きゅうりを使わない地域もあれば、牛がそもそも存在しない地域もある
また、きゅうりを使わない地域や家庭も案外あり、そうした場合は、茄子で作られた動物も「馬」と呼ばれることが多い。つまり、幾つかの地域では「牛」がそもそもいないわけであるが、「現実世界で人間が牛に乗るのは一般的ではない」ということも含めて、これにも理由がありそうである。
実は、こうした野菜の動物は、そもそも始めは先祖の魂の乗り物ではなかった、という可能性もある。そもそもこの「先祖の魂には乗り物が要る」というのは、本来仏教や神道の教義では、一言も言っていないのだから当然ではある。
精霊馬という風習が生まれるきっかけになった可能性のある幾つかの説
かつて西日本では、盆は男女共に祝う子どもの節句の一つでもあり、地域によっては、「馬節句」という呼び名もあった(西日本で盛んな、子どものための夏の行事「地蔵盆」のルーツの一つと推定される)。そしてその際には、女児の家では人形を飾り、男児の家では馬をモチーフにした玩具を飾ったという。更に武家の一部では、実際に馬そのものの贈答も行われたという古い記録もある。
この「馬節句」が、野菜の馬(や牛)を作る風習の由来ではないかという説もある。西日本では、実際の馬が少なかったからこそ、作り物で代用され気軽に親しまれたという指摘もある。
そして、そもそも実際に馬が多く武家社会が発達した東日本では、「馬節句」らしい行事は一部の地域でしか行われておらず、一般的な行事ではなかったという。これは、一つには本物の馬を扱うからには気軽にはできない、ということもあるだろう。
更に興味深いことには、熊本県の一部では、盆には一家の主人が茄子の馬(あくまで「馬」であり、「牛」ではない)を田畑のほとりに持って行き、実りの神に祈る風習があったと報告されている。これを「タノミ(頼み)の節句」という。
「牛に乗せてゆっくりお送りする」という考え方は一部の地域で生まれた可能性が高い
田畑の実りの神といえば、過去の時代に亡くなった先祖の魂が実りの神になる、とする信仰があったことも、忘れてはならない。ここで初めて、節句としての盆における作り物の「馬」と、先祖の魂との接点が出てくる。
こうしたことを念頭に置いて考えると、先祖の魂があの世に帰っていく時には、落ち着いてゆっくり帰れるよう「牛」に乗せてお送りする、という考え方は、実際には一部の地域で、しかも比較的新しい時代に始まった可能性も、ありそうである。更にいえば、この「ゆっくり帰れるように牛に乗せてお送りする」発想の直接のルーツは、歴史的に見れば実際の牛との接点が少なかった、18世紀半ば〜明治時代の極めて初めの江戸(東京)にある可能性がある。
この頃の江戸(東京)では、それ以前とは違い、法律上の理由や小回りのきく荷車(大八車)の登場によって、牛ではなく人間が自力で荷車を引くことが多かった。なお明治維新による法律の変化により、明治中期以降には牛が引く荷車が復活している。 そのため、この時代の江戸(東京)の人々は、生きた牛との接点が意外と少なかったのである。だからこそ、単なるイメージで「牛に乗ると落ち着いてゆっくり移動できる」と考えた可能性も、ないとはいえない。
参考文献:東日本と西日本 列島社会の多様な歴史世界、 誰も調べなかった日本文化史 土下座・先生・牛・全裸