「この間、函館に行ってきたんだ」薄暗い喫茶店で父が言った。今年77歳の父は私が小学生の時に家を出て以来ずっと独り暮らしだ。私も成人と同時に実家を出て、今ではすっかり独身生活に慣れている。父と私の住処はさほど離れていない。それどころか徒歩で10分ほどだ。しかし互いの生活や心情などが絡み、その距離は気が向いたときに会うくらいでは埋まらない。父が故郷としている函館とどれくらい違うのだろうか。「もう俺も年が年だからよ、色々思い出すんだよな」と呟いていたが、これも一種の終活なのだろうか。
77歳の独り身の父親が希望している献体
どんな人間も、生まれた以上は行きつく先がある。どんな物事にも始まりがあれば終わりもあるものだ。それが「死」であると思う。しかしその後始末を完璧にするなど、人間にできることなのか。特に独身者にとっては難しい問題である。
以前に葬儀はいらない、自分が死んだら献体すると父が言っていた。確かに経済的・社会的に葬儀を出すなどができない、参列者も家族のみ、それも家族すら来ないのではと不安になる魂であれば、余計なことをせずシンプルにこの世から消えたいと願うのは分からなくもない。しかし現代社会のしがらみがある以上、人は独りでは死ねないのだ。
様々な制約がある献体
例えば、献体に登録するといっても様々な制約がある。
献体を受けいれる大学や団体が火葬にかかる費用を負担してくれる、医学の研究や発展に貢献でき、誰かの役にも立てる、自分の肉体や死も無駄にならないかも知れない。そこに利点を見つけることもあるだろう。しかし、単純にそれが自分の死生観や価値観とマッチすれば良いわけではない。
まず献体には家族の同意が必要である。また大学などが負担してくれるのは火葬にかかる費用だけで、葬儀を行う場合は遺族が手配することになる。さらに献体は登録希望者の住む地域の大学や団体に限られている。これは死後献体を搬送するのに時間をかけられないためだ。そんな条件をクリアして無事献体に登録できたとしても、後に遺族の反対に遭うことだってある。好きなように死にたいのを家族に妨害される、そんなことで絆を感じたくないと思うかも知れないが、それが家族なのだろう。
献体を受け付けている最寄りの大学や団体が、受け入れ停止をしており、再開の見込みもなさそう
もうひとつ、献体を希望する父にとって残念な情報がある。
私たちの住む札幌では北海道大学の「白菊会」が献体の受けいれ先となっているが、献体数の増加によって遺族への遺骨返還が大幅に遅れているという。そのため平成28年から献体の登録を停止しているのだ。白菊会のホームページによると平成29年3月現在も登録は再開されていない。
全く人間が独りで死ぬことは難しい。問題の先送りに過ぎないが、この際、父にはもう少し元気を出してもらい、ビザを取って本当の生まれ故郷である樺太にでも行って来てもらいたい。