「友人葬」という表現は、もともと一般名詞であり現代の「家族葬」と同じような意味の言葉でした。故人を直接知っていて、その死を真に悼む人たちだけが集まって執り行う内輪の葬儀ぐらいの語義を持ちます。
友人葬の由来とやり方
この言葉の意味が大きく変わったのは、1991年に、日本最大の宗教法人である創価学会が本山の日蓮正宗に破門されるという事件が起きてからのことです。
日蓮正宗の僧侶は創価学会の管理下にあるわけではありませんでしたので、破門以後の創価学会では僧侶を一切関与させない形式の葬儀を行うようになります。
現在ふつうに「友人葬」という名称を使う場合、その大半が創価学会員によって主催される葬儀を指すようになっています。
葬儀は故人に対する報恩感謝の念で行うべきものであり、僧侶は成仏のために必要ではないという考えを明確に打ち出し、戒名を付けずに生前の俗名をそのまま用います。僧侶を呼ばないのですから、お布施の必要もありません。
基本的に花輪も生花も飾りません。関西式の葬儀でよく見かける樒(しきみ)という常緑樹の枝を祭壇に供えるぐらいです。
僧侶がいませんので、読経は地域で決められた儀典長と呼ばれる3人の指導者がリードして、列席者全員に唱和してもらう形になります。
布施も必要なければ香典も強制しない友人葬。これからの葬儀を先取りしているかもしれません。
創価学会というと、とかくいろいろな噂が尽きない団体でもあり、ヨーロッパでは危険カルト指定している国まで存在します。「友人葬」という言い回しもかなり恣意的なもので、実際の葬儀の参列者のほとんどが同じ支部に属する創価学会信徒だったりします。
しかし、葬儀の方式に関してだけは、極めて合理的で現代日本人の要求に合致しているように感じられるのです。
江戸時代に幕府によって強制された寺請制度のために、日本の葬儀は仏教の僧侶が一切を取り仕切るという慣習が出来上がり、戒名料やお布施の問題についても寺の言いなりにせざるを得ない状態が長い間続いていました。
他教と混淆してしまった(本来の仏教にはない)儀礼である回忌・年忌の法要にも多額の費用がかかるものでもありました。俗に「坊主丸儲け」と言われる由縁ですね。
創価学会の、仏教宗派との関係を断つことで無用な虚礼(出費)を削減していくという考えかたは、これからの時代の葬儀の形を先取りしているものだと言えるかもしれません。
やたらと費用のかかる大きな葬儀から、コンパクトで真心のこもった小さな葬儀への移行が進んでいる現代の日本では、排他的な(と称される)新興宗教の変わった葬儀という視点ではなく、もっと公平に創価学会式の「友人葬」を評価してもいいのではないでしょうか。
「友人葬」では、香典を持参することに関しても参列者の自由な意志に任せます。香典返しの必要性も主張しません。この結果、身寄りのない年配者や無宗教の人が葬儀社に「友人葬」を依頼する例も年々増えつつあるそうです。
あるいは「友人葬」は、なかなか普及する気配を見せない「自由葬」への架け橋になるかもしれません。
「友人葬」は、葬儀には(高額な金銭を要求してくる)宗教的権威者が必須のものであるという従来の日本人の固定観念を打破してくれる可能性があるように思えるのです。