いわゆる日本式仏式葬儀の形式のルーツは、実は中世の禅宗にまで遡る。 この時代、禅宗の宗派の一つである曹洞宗では、独り立ちの僧侶になる前の修行僧(雲水)が亡くなった際、彼らの志を果たしてやるため、故人を正規の僧侶としての扱いで弔うしきたりがあった。
このしきたりを、男女僧侶ではない一般の人々の葬儀に応用し、故人は死後の世界で僧侶になったとみなしたのが、日本式仏式葬儀の始まりであった。
仏式葬儀の普及時にはまだ経帷子は使用されていなかった
そして、浄土真宗以外の日本式仏式葬儀で死者の衣装とされる「経帷子」(近年では、故人にはお気に入りの服を着せ、経帷子は棺に入れるだけとするケースが多い)は、往時の僧侶が聖地を巡礼する際の、旅装束をイメージしている。ところが、この経帷子は、実は案外新しい時代に取り入れられた習慣であった。
中世の半ば〜後半頃、禅宗の信者である高位武家の一般人(ここでは、亡くなった時点で出家していない男女)が亡くなった際、故人の髪を剃って僧侶の服装をさせ、火葬や土葬をするケースが多くなってくる。しかしこの習俗が、そのまま直接、故人に経帷子を着せるしきたりになったのではない。
その後、火葬という埋葬方法は衰退していった
中世末期〜近世初期に、それまで着実に支配層の人々に取り入れられていった火葬を、タブー視する空気が生まれた。大きな理由は2つある。1つは、祖霊信仰と混交した儒教道徳が強まったことによって、「火葬は親や主君の遺体を焼いて失わせるため、忠孝道徳に反する」とする価値観が生まれたことである。もう1つは、これまた祖霊信仰と密接に結び付いた、「火葬は悪臭や『穢れた煙』の発生源になるため、死後『神』となる貴人にふさわしくない」という価値観が生まれたことであった。
そしてこの2つの価値観は、一体化して益々強まり、それまで火葬を採用していた上流層の人々は、次第に火葬を廃止し、土葬を選択するようになっていった。
そのため江戸時代には、身分に関係なく、火葬は余り広まらなかったのであるが、この新しい価値観の登場は、一方では埋葬される死者のいでたちにも、変化をもたらしている。
「最高の正装」をして埋葬という風習は広く一般的に存在していた
将軍や大名、あるいは特に高位の家老といった、より上流の武家の当主は、信仰する宗派を問わず、亡くなるといわゆる衣冠束帯姿など、「自分の身分での最高の正装」姿で埋葬されることが一般的になった。これは、彼ら貴人が死後に「神」となった際の衣装も、イメージされている面もあるだろう。
この動きは、もう少し身分の低い武家や庶民でも同様であった。例えば、これは若干都市伝説化している例だが、高度経済成長期に東京の築地の再開発が進んだ時、江戸時代の墓の跡から、偶然一種のミイラとなった遺体が出土した。その中には、振袖を着た若い女性の遺体もあったという。彼女も、いわば「自分の身分での最高の正装」姿で葬られたわけである。
江戸時代の終わりになると経帷子らしきものが使われるようになった
江戸時代も終わりに近づいた1822年、今の山形県南部の米沢藩の藩主であった上杉治広が亡くなった。米沢藩主はいわゆる大大名でなかったので、治広は衣冠束帯姿ではなく、烏帽子に直垂という、やや身分の低い貴人の正装姿で埋葬された。そして、彼の棺には、現代に近いタイプの経帷子1セットも納められた(この点は、経帷子の近年の扱い方に似ている)。なお庶民層でも、地域や宗教宗派によって違うが、同じ頃から、現代の経帷子に近いものが使われるようになってきた。
江戸時代も後半の19世紀の始め頃になって、上流層・庶民層共に、死装束に経帷子が少しずつ採用され始めた理由は、まだはっきりとはわかっていない面も多い。ただ、死者に経帷子が着せられるようになったのは、実はそれほど古い時代ではないということは、確かなことであろう。
参考文献:葬送儀礼と装いの比較文化史 装いの白と黒をめぐって、 東京骨灰紀行