19世紀のアメリカに、ハリエット・アン・ジェイコブズという元黒人奴隷の女性がいた。彼女は奴隷制を認めない州に逃亡して自由になってからは、元黒人奴隷が自立できるための運動に尽くした。
彼女は奴隷であった時期を描いた回想録を残している。その中には、アメリカの黒人奴隷が、奴隷の身分にある状態で亡くなった際、葬られた墓地の貴重な描写がある。
それはジェイコブズの出身地ノースカロライナ州イーデントンにあった、奴隷墓地についての記述である。この墓地には、ジェイコブズの若くして亡くなった両親も葬られていた。
墓地の近くには祈りを捧げるための集会所もあった
1835年頃、ジェイコブズは自分の主人ではない白人弁護士との間に生まれた2児と共に、逃亡する覚悟を決め、それから7年間隠れ住むこととなる。そしてその決意を、亡き両親の墓前で行った。
このイーデントンの奴隷墓地は、「森の中」にあり、近くには「奴隷が祈りのために集うことが許されていた集会所の跡」があった。
「集会所の跡」云々とあるのは、1831年にヴァージニア州で起こった奴隷の蜂起「ナット・ターナーの乱」の鎮圧後、奴隷がそうした祈りの集まりをすることへの締め付けが厳しくなり、取り壊されたからである。「ナット・ターナーの乱」を率いたナット・ターナーは、奴隷たちのコミュニティの宗教的なまとめ役であった。なお、当時奴隷であった黒人の多くは、プロテスタント諸派の信者であり、ターナーやジェイコブズもそうであった。
石の墓標ではなく、木の墓標がたてられた
イーデントンの奴隷墓地の例では、結局「治安維持」の名の下に取り壊されたとはいえ、1831年以前には墓地に隣接した集会所(礼拝所)があり、それなりに埋葬の儀式もできたようである。ジェイコブズの両親は1831年よりも前に亡くなっているため、葬儀はそこで行われたと推定される。
イーデントンの奴隷墓地では、石の墓標は建てられず、木の墓標が建てられた。そしてその木製の墓標には、葬られた故人の名を刻むことが許されていた。ただ、木製の墓標が風雨にさらされ、朽ち果てると、普通再建はされなかったようだ。
墓地の様子からも当時の過酷さが伺えた
興味深いのは、ジェイコブズの母の墓標は、生きた木であったということである。この「生きた木の墓標」は、妻に先立たれたジェイコブズの父が植えたものであったが、何の木であったかは書かれていない。
更に言うと、1835年頃の時点で、彼女の母の墓標であった木は、「黒ずんだ」切り株となっており、それよりも前に切り倒されていたことがうかがえる。ジェイコブズの母は1819年頃に亡くなっており、墓標として植えられた木がそれから20年も経っていない時期に、寿命で枯れたので切り倒されたとは、少々考えにくい。
なぜ、誰によってこの墓標の木が切り倒されたのかは、わからない。但しこれも、「ナット・ターナーの乱」後に、奴隷たちの祈りの集まりがしばしば禁じられ、イーデントンの奴隷墓地に隣接する集会所も取り壊されたことと、関係がある可能性も考えられる。過酷な抑圧の歴史が、こうしたさりげないくだりからも読み取れる。
参考文献:ある奴隷少女に起こった出来事、 アメリカ黒人とキリスト教 ― 葛藤の歴史とスピリチュアリティの諸相