戦前に活躍した民俗学者の中山太郎は、1931年に雑誌「犯罪科学(7月増刊号)」で発表した論文の中で、かつての沖縄には「髑髏塚が各地に在った」というような内容を記している。
大いに心をくすぐられた筆者は、早速この「髑髏塚」について調べてみた。すると「髑髏塚」と呼ばれていた古い墓は、実際に沖縄の「各地」にあった、いわゆる洞窟墓の普通名詞ではなく、特定の古墓を指す固有名詞だったようである。
そして結論から言うと、その「髑髏塚」とは、現在の沖縄県今帰仁村の運天に今も残る、「百按司墓(むむじゃなばか)」を指すもののようである。
洞窟墓は沖縄各地にあったが髑髏塚は沖縄県今帰仁村にだけ存在した
中山の論文には、「沖縄の髑髏塚」というキャプションのある写真が、画像資料として引用されている。実はこの写真は、戦前に書かれたドイツ語書籍「琉球国」にある「運天港の髑髏塚」の画像と、大変よく似ている。
このことを考えると「いわゆる洞窟墓というもの」自体は沖縄各地にあったが、実際に「髑髏塚」という名で呼ばれている洞窟墓が、沖縄各地に実際にあったということではないようだ。また、沖縄にはかつて「洗骨」や、遺骨の改葬の習俗があったことは有名である。しかし、この「髑髏塚」の写真の例のような、遺体の頭蓋骨だけを「墓の外」に取り出して祀るしきたりは、筆者の知る限りでは、沖縄本島及び近隣の島では行われなかったようである。
離島にも似たような埋葬方法をとる地域があった
ただ、沖縄本島から離れている地域の例であるが、与論島南部の「ギシ(ヂシとも発音)」という古くからの共同墓((洞窟墓)に、この「運天港の髑髏塚」と似た頭蓋骨祭祀のしきたりがあったことが、わかっている。
このギシでの頭蓋骨祭祀は、比較的新しい時代まで続いていた。何と1930年になっても、三十三回忌を迎えた故人の頭蓋骨を個人墓からギシに移し、「他の骨はギシ近くの骨捨て場に投げ込んだ」ケースもある。但し、ギシでの頭蓋骨祭祀が「運天港の髑髏塚」と関係があるかどうかは、不明である。
そして、「運天港の髑髏塚」ではこうした埋葬儀礼が、いつ頃なぜ始まったか、また与論島の例を除けば他の古墓では行われなかったのはなぜか、などということも、筆者の知る限りでは全く不明である。
最期に…
筆者は更に、この「運天港の髑髏塚」について詳しく調べてみた。すると、この「髑髏塚」は、元々は先に述べたように「百按司墓(大勢の領主の墓、という意味)」という名であり、現在でもこの呼び名が一般的であるようだ。
「百按司墓」が具体的にどんな人物の墓だったのかについては、はっきりした記録はないが、様々な伝説がある。実際には、中世〜近世初頭の地方の支配者層の人々の墓であり、長い時代に渡って、次々と葬られていたようである。
参考文献:タブーに挑む民俗学―中山太郎土俗学エッセイ集成、 奄美・沖縄 哭きうたの民族誌