江戸時代は、漂流民となった人々が、それ以前の時代に比べ多く報告されている。例えば、ロシア帝国の船に助けられ、首都ペテルブルクにまで行った大黒屋光太夫や、アメリカ船に救出され、アメリカで暮らしたジョン万次郎などの例が有名である。
そして、日本の船に救出された人々や、漂流先で救出されずに亡くなった人々も、実は案外いた。
現存する記録の中には信憑性があるものとそうでないもが混在
そんな、「日本船に助けられた江戸時代の漂流民たち」についての記録の中には、無人島に漂着し、そこで亡くなった漂流民の遺体が、どのように扱われたかということについての、貴重な証言が残されている。
また、明治時代の1887年に、鳥島を開拓した一方、アホウドリの乱獲で富を築いた実業家、玉置半右衛門の部下が残した日誌には、鳥島の実地記録としても価値のある記述が多い。その中には、漂流民たちの遺骨が葬られた場所を、実際に見た際の記録もある。
そしてそれらは、江戸時代、極めて特殊なケースの遭難死者が、どのように弔われたのかということの大変貴重な資料でもある。その記録は、土佐藩の住民で、廻船の水夫であった「野村長平」という人物が、1785年から1797年までの、鳥島に漂着してから救出されるまでの経緯を記録(聞き書き)した、幾つかの書物の中にある。
但し、これらの記録の中の、亡くなった漂流民の遺体の扱いの記録に関しては、矛盾点が多いことも忘れてはいけない。例えば、書物によって異なる証言があったり、また先述した明治期の実地記録との食い違いがあったりするなどである。そのため、最も信憑性が高い聞き書きは、明治期の実地記録と一致する点が、より多いものだといえよう。
手厚く葬ったという記録とそうでない記録の二通り
それらの記録によれば、長平と一緒に漂着した彼の同僚の廻船水夫や、後に漂着し長平たちの仲間となった人々のうち、亡くなった仲間たちは生き残りの人々によって火葬されたという。そして長平その他生き残りの人々は、彼らの名や亡くなった年月、郷里を刻んだ石碑を建て、亡くなった仲間の遺骨はそこに納めず自分たちが持ち歩いた。
但し、明治時代の鳥島の実地記録では、石碑の下に大量の遺骨があったとするくだりがある。この点は先に指摘した矛盾の一つである。そうなると、遺骨を石碑の下に納めなかったという証言は信憑性が低く、且つ亡くなった漂流民は、実際には火葬ではなく土葬された可能性も高い。
そして長平たちが救出され船が島を離れた際、彼ら漂流民たちは島に向かい、亡くなった仲間の名を呼び、一緒に乗って郷里に帰ろうと彼らの霊魂に呼び掛けた。このくだりからは、死者の魂は遺骨や墓にいつまでも宿らないとする信仰と、助けを待たずに亡くなってしまった仲間の魂が、死後の楽園で安らかに眠るよりもまずこの世に留まり、郷里に帰ることが、彼らの幸せだとする信仰がうかがえる。
最後に…
この2種類の考え方が混在していたのは、実は極めて江戸時代的な死生観である。なぜなら、江戸時代は「死者は遺体や墓やこの世に宿らず、速やかに死後の世界に行く」とする中世的な信仰から、「死者は墓や遺体に宿って、この世に留まる」とする新しいタイプの信仰に移っていく、いわゆる過渡期といえる時代だったからである。
なお、聞き書きの中には、亡くなった仲間や、自分たちが漂着した時既に白骨化していた、身元不明の漂流民の遺骨も持ち帰り、八丈島の宗福寺に埋葬したとするものもある。しかし、これは明治期の実地記録にあった、「漂流民の少なくない遺骨が葬られているのを見た」という箇所と矛盾し、信憑性は低いといえよう。
参考文献:漂流の島: 江戸時代の鳥島漂流民たちを追う、 死者のゆくえ