日本全国津々浦々の田舎の山や森、林の奥には、倒れていたり、辛うじて屹立していても、ほとんど原形をとどめていない、草に覆われ、苔むした墓が存在する。
時にそうした墓がある場所は、「幽霊が出る」「人魂を見た」「そこをたまたま訪れた人に、たたりがあった」などと噂が噂を呼ぶ「心霊スポット」となり、肝試しで夜中に訪ねて行く人が後を断たなかったりもする。
今回はそのような古い墓所の事例として、福岡県の犬鳴山(いぬなきやま)の中にある、幕末期の「旅人墓(どじんばか)」を取り上げる。
製鉄所で働く人の住居と製鉄所が作られた犬鳴山
犬鳴山とは、福岡市域とかつての筑豊炭坑地帯のひとつであった直方市のほぼ中間に位置し、福津市、宮若市、古賀市、糟屋郡新宮町、同久山町の3市2町にまたがる犬鳴山系の南側にある、およそ584mの山である。
江戸中期に国井大膳が著した地誌『犬鳴山』によると、「往昔ハ当山の諸木立茂る事如麻竹のして良材多し、白昼と云共山中昏闇、狩人の外往向人稀にして、猪鹿猿狼のミ多し」(原文ママ)という状況だった。
それゆえ犬鳴山は、初代福岡藩主・黒田長政が「国の納戸」と評していたほど、主に木材などの豊富な天然資源に恵まれた山だった。しかもそこでは幕末の一時期に、鉄の精錬が行なわれていた。
『犬鳴鉄山由来書』によると、幕末期の1854年には、山中に、福岡藩の主導により、たたら製鉄の先進地であった石見国(現・島根県)津和野から招聘された職人の住居12軒が建てられ、たたら場として大鑪(たたら)屋館(製鉄所)と大鍛冶場(鉄を精錬する職場)各1軒、鉄奉行役所・役所詰方役所各1軒が置かれていた。しかも大鑪屋館には、9×8間(16.3m×14.5m)の高殿(たかどの)、製鉄炉の地下には大規模な保温・防湿設備が設置され、天秤ふいごで送風した、当時では最新の製鉄法による操業が開始されていたという。
こうして精錬された鉄は、博多土居町釜屋深見惣右衛門に卸されていた。この地に製錬所を設けたのは、たたら場の燃料になる木炭用の木材は豊富で、犬鳴山並びに近在の畦町・本木(共に現・福岡県福津市)の土壌には、良質の砂鉄が豊富に存在していたこと、そして犬鳴山周辺よりも砂鉄が多く採れる芦屋(現・福岡県遠賀郡芦屋町)にも近かったためであると考えられる。
しかし、「鉄を吹出すこと許多なり」だったにもかかわらず、1857年に大鑪屋館が真砂子(現・北九州市八幡西区)に移されることとなり、廃絶された。その後、現在金山と呼ばれている場所で鉄山仕組が1859年に開始されるが、1864年に再び廃絶される。
「旅人墓」とは製鉄所で働いた人達のお墓
このような犬鳴山中における製鉄の営みをあかしするのが、地元の人から「旅人墓」と呼ばれている墓所である。金山奥の山の中腹に8基、もうひとつは穴蔵口と呼ばれるところに6〜7基の存在が知られている。
2015年9月に筆者が訪れた金山地区にある「旅人墓」は、やや南にのびた尾根上の平地に2段になって形成され、下段には墓石が約8基あり、銘がある墓石が3基(俗名1:為衛門・2:浦右エ門子榮太郎・3:徳太良)、他は自然石が立てられていた。上段は約85cm×80cmの石囲みの墓域をもった墓が2基あり、ともに自然石を立てているが、そのうち1基(俗名4:良助)に銘がある。建立時期は1861年から1863年であり、金山地区における鉄山操業時と一致する。そのような「旅人墓」は、触れると祟るというので、鉄山廃絶後から現在に至るまで、誰も祀る人はいなかったという。
何故、これらの墓が「旅人墓」と呼ばれていたのか。それは単純に「リョジン」が「ドジン」と、人の口に上るうちに簡略化されていった。または、郷土史家の小方良臣によると、たたらの民は「炉」の人、「ロジン」が「ドジン」と訛ったとも考えられるとのことだった。
犬鳴山中の人々に限らず、一般にたたらの民は、土地に先祖代々根づいてきた農民たちから一段低い者と見られ、近年まで差別されることが多かった。江戸期においては、藩の統制下で操業されていたこともあるが、彼らは山から降りて、ムラの共同体に混じり込むことは決してない。あくまでもよそから来た、何者かも、何をしているのかもわからない「旅人」だったのだ。
製鉄所で働く人達は差別されていた
中世期の日本を描いた宮崎駿によるアニメーション作品『もののけ姫』(1997年)の中に、たたら場の男が、「おれたちの稼業は山をけずるし、木を切るからな。山の主が怒ったてな」(原文ママ)と語るせりふがある。
歴史学者の笹本正治はこの言葉に着目し、鉄を作ることはそのまま自然を破壊することにつながった、だからこそ、自然の中に生きるもののけ姫が、彼らを敵視した。しかし同時に、砂鉄から鉄を生み出し、加工する職人たちは、自然に手を加え、人間にとって有用な別の物質を作り出すだけに、自然を司る世界と人間の世界をつなぐ、特殊な能力を持つ人でもあった。それゆえに彼らは聖視されたが、神仏や聖なるものに対する意識が減退する近世になると、少数者であるがゆえに差別の対象となったと指摘する。まさにこれらの、「旅人」とは相反する存在である近在の人々からの、たたらの民に対する聖と賎が混在した様相こそが、墓の名前が○○の墓、ではなく、「旅人墓」と呼ばれ続けていたことの最大の理由であろう。
犬鳴山の鉄山廃絶後、「旅人」たちはどこへ行ったのか。一説によると、たたら場の総責任者(村下)であった利右衛門は、1869年に真砂子鉄山に移動し、遠賀郡楠橋町(現・北九州市八幡西区楠橋)に住んでいた。しかし翌年、同僚の嘉平(嘉平次とも言われる)と共に、佐賀県の唐津に行ったとされる。しかしそれ以後の消息は不明である。
最後に・・・
他者である我々は、自分の居住圏とは離れた場所にある朽ち果てた墓に「霊」「たたり」などの意味を付加し、恐がり、避けながらも、その恐怖を心のどこかで楽しむ傾向にある。或いは、そうした怪異の根源を精査したい衝動に駆られることもある。これらの情動は、皮肉にも、朽ち果てた墓が朽ち果てず、我々に忘れられず、記憶され続けることをも意味してもいる。
死者にとっては、永眠の妨げになったと、怒りに打ちふるえてしまうのか、それとも、よく忘れずに来てくれた、と歓迎してくれるのか、我々には知る由もない。とはいえ、最後のたたらの民・利右衛門や嘉平の墓こそは、犬鳴山の墓のように、「旅人墓」と周囲の人々に呼ばれ、怖がられながらも、忘れ去られ、朽ち果てたままの墓ではないことを祈るばかりである。
参考文献:筑前国続風土記附録、 続・部落史の再発見、 九州の山岳