明治期に活躍した海軍の要人である東郷平八郎は、1934年に亡くなり、国葬によって弔われた。しかしこの彼の国葬が、一方ではいわゆる「忠霊公葬」論のきっかけとなったのである。
「忠霊公葬」論とは、簡単にいうと、戦没者や功のあった軍人の葬儀は何としても神道式でやるべきであり、例えば仏式やキリスト教式のような他の様式でやるなど、とんでもないとする言説である。
東郷の国葬の時点では、まだくすぶり始めた程度であったが、太平洋戦争の時代にはピークに達した。
忠霊公葬論と神式
「忠霊公葬」論では、戦没者は、靖国神社に祀られることによって、護国の神として永遠に「生きる」ことができる、とされた。この「忠霊公葬」論は、当時としても最右翼であった政治団体の連合によって担われていた。
「忠霊公葬」論を唱えた人々の中でも、特に急先鋒であった影山正治という人物がいる。彼は1944年に「忠霊神葬論」という書物を著したが、その中には、「死後に極楽浄土に行くのは、天皇に永遠に仕える霊魂であることを放棄することなのだから、国家に反逆する大罪である」という意味合いのくだりまである。
こうした「忠霊公葬」論の担い手たちは、他にも衆議院・貴族院に請願したり、建白書を関係各方面に送りつけたりしたが、彼らは自説を全て実現させることは、結局できなかったようである。
戦争での殺生は殺生戒に適用されないとした仏式
一方、仏教界もこの時期には、戦没者のための葬儀をどうするかについて、悪戦苦闘していた。
例えば、仏教でも重要な戒めとされる「殺生戒」については、戦没者の場合どうなってしまうのかということが、大真面目に議論された。そして、そうした議論は、しばしば「戦争には殺生戒は適用されない」という結論に達したようである。現に、「戦争で敵を殺すのは、殺生戒には当たらない」とする教義書も当時には多く出ている。
また、戦没者の葬儀の際の僧侶の「引導法語(故人の徳を讃え、戒名の意味を示し、成仏への道を語る法語)」及び、戦没者向けの戒名のマニュアル本も存在した。1943年に出版された『大東亜戦引導法語集』がそれである。「八紘一宇」などの当時の戦争遂行のためのスローガンや、「忠・勇・義・烈・武」などの文字が多く使われた法語や戒名が、多く掲載されていた。