栃木県の日光に葬られた初代家康と三代家光、大正時代に亡くなり谷中霊園に埋葬された十五代慶喜以外の歴代将軍は、上野の寛永寺あるいは芝の増上寺に埋葬されている。
これらの歴代将軍は、亡くなっても火葬されずに土葬された。その大きな理由としては、次の2つが挙げられる。
火葬を忌み嫌った歴代将軍
(1)安土桃山時代後期〜江戸時代の初め頃から、遺体を焼くという行為自体が、それまで仕えていた貴人に対して、忠孝道徳に反するとみなされていた。
(2)同じ頃から、「火葬は、悪臭や“穢れた煙”の発生源になるので、死後“神”となるべき貴人にふさわしくない」と考えられていたため
この結果、将軍たちの遺体は、悪臭や“穢れた煙”の発生源になったり、火によって損なわれることもなく、未来永劫墓所の地下に安住した、はずであった。
しかし、増上寺に埋葬された将軍たちの遺体は、戦時中から戦後復興期、一騒動に巻き込まれている。
空襲により霊廟が破壊され、改葬された際に火葬された
太平洋戦争も末期の1945年5月。山の手大空襲と呼ばれる、東京の山の手がアメリカ軍により爆撃を受ける。その際、増上寺の徳川将軍家の霊廟も焼失した。
戦後、徳川将軍家の霊廟跡地にプリンスホテルが建てられ、また近隣に東京タワーが建つことになったため、将軍たちの遺体を改葬することになった。そこで1958年、将軍たちの遺体や副葬品などの歴史的・人類学的研究も兼ねて、墓所は発掘された。
その後、歴史的・人類学的調査を受けた歴代将軍の遺体や遺骨は、その後火葬され増上寺の奥まった墓所に改葬された。これらが火葬を拒否した歴代将軍のうちの何人かが、結局火葬される運びとなった理由である。
徳川歴代将軍と対照的だった伊達政宗
ちなみに対照的な運命を辿ったのが、仙台藩祖伊達政宗の墓と遺骨であった。
仙台市にある伊達政宗霊廟(瑞鳳殿)は、1945年7月の爆撃(仙台空襲)により焼失した。後の1979年に瑞鳳殿が再建され、仙台の名所の一つとなって今に至っている。
その前の1974年に、政宗の遺体や副葬品などの歴史的・人類学的調査が行われた。しかし、この時には政宗の遺骨は火葬されず再び元の墓に戻され、更に霊廟も再建されている。