平安時代以降、天皇や上流貴族の間では、亡くなると遺体を火葬することが一般化していった。
政治的な争いに敗れて流刑に処された上皇(位を退いた天皇)も、流刑地で亡くなると火葬されることが多かった。
こうした火葬の風習は、当時の都であった京都以外の地域にも、地域差はあるが少しずつ取り入れられていった。
平安時代以降、火葬は高級な葬送として知られていた
この結果、近世初頭(戦国時代後期〜江戸時代初期)には、特に西日本を中心とした各地の要人で火葬にされる人物も出ている。
例えば、四国地方の有力大名だった長宗我部元親や、広島藩主となった福島正則などが火葬されている。東日本でも、米沢出身で仙台藩祖となった伊達政宗の両親や、二代将軍徳川秀忠夫人の江姫などが火葬された。
ところが17世紀の半ば以降、こうした貴人たちの間で、火葬に対する常識の大変化が起こる。なんと火葬がタブーとされるようになってきたのである。
しかし17世紀半ば以降、一転火葬がタブーとなっていった
なぜ、火葬がタブーとされるようになったのか。
様々な理由があるが、一つには、この時代に強化された儒教思想のためであった。
「子どもが親の遺体を焼くことは、“親不孝”な行いである」という価値観が強くなってきたわけである。そしてこの価値観は、「家来が主君の遺体を焼くことは、“忠義に反する”行いである」とする価値観にも通じた。
そうした空気の中、時の天皇が火葬ではなく土葬で埋葬されるようになる。
また、そもそも徳川将軍本人が火葬されなかったことも、この「火葬は忠孝道徳に反する」とする思想と密接に結び付いていたと思われる。
このようにして、高位の人々の間では火葬がタブーとなっていった。この影響は庶民層にも及び、その結果、庶民の火葬率は高くならなかったのである。
終いには、火葬から想起させた処刑方法「火あぶり」が広まる
そして、火葬がタブーとなっていくと、囚人を処刑する新しい方法として「火あぶり」が採用されるようになってきた。火あぶりは、近世以前には処刑法として採用されていなかった。しかし安土桃山時代頃に少しずつ取り入れられるようになり、江戸時代には、特に放火をした人を処刑するのに採用された。
現代でも、特に新しい時代まで火葬にマイナスイメージがあった地域などでは、火葬から火あぶりによる処刑を連想する人もいる。
葬送法の移り変わりは、一見葬儀・埋葬とは関係がなさそうな物事にも、少なくない影響を与えていることがある。