明治時代の極めて初期、いわゆる文明開化の一環として近代的な法律が作られた。
そしてそれらの条例を知ってもらうための一つの工夫として、各地の出版社から、絵入りの説明書が何種類か出版されている。
しかし、その中にひとつ理解に苦しむ法律があった。
それは、現代語で表現すると「他人の墓を壊してはいけない」、「神社や寺院の物を壊したり落書きしてはいけない」というような内容であり、事実、多くの絵入り説明書にも、その場面が描かれている。
普通なら「祟られる!」と思っていたずらなんかしないはず?
「昔の人はモラルが優れていた」と、しばしば言われる。しかし、実際には過去を極端に美化した単なるイメージに過ぎないということは、時々指摘される。
この指摘を考えると、神社や寺院へのいたずらが法律で禁止しなければならないほど多発していた可能性も有り得る。
では、墓へのいたずらも多かったのだろうか。
特に昔は「死者の祟り」が大真面目に信じられていた。特に災害や突然死などはしばしば「死者の祟り」と噂されたほどである。そうした時代の人々が「死者=祟る恐れのある存在」を埋葬した墓にいたずらをし得ただろうか。
「祟られる!」という考えはあまり一般的ではなかった
実は、その可能性もないとはいえない。
日本各地には、悲劇的な死を遂げた死者の身体の一部を埋葬した「首塚」「胴塚」「その他身体の一部を埋葬した塚」や、戦いの戦死者を供養する「千人塚」がある。そうした様々な「塚」の中には、「祟り」の伝説は存在しなかったか、あるいは少ないものが実は多い。
東京の大手町にある有名な「平将門の首塚」も、いわゆる「祟り」が大々的に噂されるようになったのは、近現代に入ってからである。それ以前は、むしろ江戸の守護神としてのイメージの方が強かったという。他にも、そうした守護神としての信仰を集めていた「塚」は多い。
そうしたことを考えると、明治の極めて初期には、「塚の祟り伝説」が現代よりも少なかった可能性があり、このこととお墓のいたずらが多かったということには、なんらかの相関関係があるのかもしれない。