私は30代半ば男性です。私の世代的に、私の両親は「団塊の世代」ではないことが多いですが、私の両親、特に母は「団塊の世代」です。
両親は、結婚は早かったのですが私が生まれるのが遅かったのです。今でこそ遅くはないのですが。私はマザコンなのか、母と人生について話を重ねることが多く、特に中学生のころからすでに「人が生まれて、親と出会ったこと」等、結構、普通の親子ではしなさそうな話を突っ込んでしてきました。
そのせいか、異常に母とはシンパシー(心的同調)が強く、感覚を分かち合えます。
それ故、やはり、世代の壁のようなものを強く感じ、越えられない壁みたく感じます。葬儀についても母の揺れ動く気持ちを感じます。
混迷する葬儀のありかた
「混迷」と書きましたが、より公平には「多様化」でしょうか。
この多様化によって、葬儀自体の在り方が状況にそぐわなかったり、或いは、参列する人と意見がうまく合わなかったりしていると思います。
私の父方の祖父は、生前、近親者のみで葬儀を行うように、と言い遺し、喪主を父が務めました。
しかし父の姉が父方の親族を呼び、新聞に訃報を出すと、呼ばれなかった母方の親族は激怒し、わが家の中が荒れました。呼ばれなかった母方の親族からしてみれば、「我々はあんたの親族ではないのか」と不満が上がったわけです。しかし、おかしな言い方ですが、このような例は「ありふれた例」で、ここのコラムにも登場するように、とどのつまり「葬儀は誰のため、何のために行うものか」にかかわる問題でしょう。
普通では、突き詰めて考えられてこなかったことが、核心をついた形で現れたものと思います。
決まりきった葬儀と葬儀の意味を考えること
私は、葬儀の根本は、遺された人たちが死者との別れを悼み、お互いの「絆」を確認しあうことかと思います。
この「絆」当人同士の間に存在するもので、絆の在り方も考え方も、そしてその表現の仕方もさまざまで、それこそ、人の数だけ「絆の形」があるといっても過言ではないでしょう。
それ故「昔ながらの決まりきった葬儀」は「面倒なことを避ける」「さまざまな絆の在り方に対応する」のに合理的であると考えます。
私の母に見る団塊の世代の葬儀観
「昔ながらの決まりきった葬儀」は、少なくとも母にとっては「面倒を避ける」上で合理的なようです。
他方で「お金がかかる」「手間がかかる(大騒ぎになる)」等、却って面倒なことがあるとも思っているようです。
おそらく、多くの方(母と同年代の方々も)大体似たような思いであると思います。また、昔は、死について話すこと自体、穢れると思われていたようですが、現代はずいぶんと様変わりしました。
人々の気持ちが変わったのが先か、はたまた、気持ちが後から変わったのか、どちらが先かわかりませんが、母は「火葬場がきれいになった」と死について話すことの穢れが変わったことを指摘しています。
生まれることも、死ぬことも私たちが、「生活すること」です。家の中をきれいにするように、お手洗いや下水もきれいに、そして、葬儀もきれいに、と葬儀観が劇的に変化していると思われます。
生活に不必要な支出を省き、かけるべきところにお金をかける、ある意味合理的で、そして、真に心豊かな生活を追い求める。その中に、「家族葬」という選択肢があるのではないかと思います。
団塊の世代は邪険にされている?
私が母に、「自分たちが送り出した上の世代(私にとっては祖父母の世代)が、華美なお葬式を挙げてもらったにもかかわらず、自分たちは質素になるのは、損に感じるか?」と質問しました。
母からは「それとは関係ない」と答えが返ってきました。
私がこの質問をした意図は「団塊の世代人数が多いから何でも損だと思っていないか」だということを説明すると、「団塊の世代は狙われているとは思う。
税金にしろ何にしろ、政治・政府・企業から何から何まで、ターゲットにされていると思う。でも、人数が多いということを意識して、葬儀を考えたことはない」と答えが返ってきました。
人ぞれぞれと思いますが、小さかったころから、同世代の多いことは、嫌な面もある一方で「もう仕方ない」、「誰のせいでもない」等、複雑な思いで、その事実と「共存」しているようです。
やがて送り出す私たちと送り出される世代、そして、これから
私が、とても嫌な質問をしたにもかかわらず、答えてくれた母に感謝です。私と母はそれだけ強い「きずな」で結ばれている気がします。
ここではお話しできない艱難辛苦を、私は母と共に乗り越えてきました。いわば「同胞」です。多くの場合は、このようではないと推測します。このことを通じ、このお話の中で、もう一度確認したいこと、それは「葬儀を行うことの意義」です。
人類を特徴づける物事は、数多くあります。例えば、火を使うとか、道具を使うとか、道具をつくるとかといったことです。その中に「埋葬」をあげる話があります。ネアンデルタール人は、仲間の死に花を手向けた、という説があります。私たち、生物・動物としての「ヒト」は、仲間の死に何かしらの感情を持ち、それを葬儀という形で受け入れ、整理し、互いのきずなをより強めてゆくもののようです。
今まさに生きている私たちは、家族と仲間の死・別れに何を思うのでしょうか。そして、それをどう表現し、確認し、受け止め、生きてゆくのでしょうか?
家族葬の在り方を考えることは、私たちが、より深いきずなを求めている、或いは、きずなについて考えようとしていることに他ならないのかもしれません。そして、このことはさらに子・孫の世代にも受け継がれてゆくべきものなのでしょう。