やりつけないことをする場合、誰しも困惑をおぼえる。しかし、ほかの人は普通にやっていることである。さして困った様子もない。だからそう難しいことではないに違いないとおもうのだが、「ええと、どうすればいいのかな」となる。
墓前に供える花もその一つではないだろうか。たいていは、「まあ、花屋に行けば」ということになり、実際それで事は足りるのだが。
特別な決まりがない仏花
墓に供える花を仏花(ぶっか)と言う。仏花には特別重要なきまりはないそうで、こんな花を手向けたら故人が喜ぶだろうとおもう花を選ぶのが基本で、またそれが一番素直に私たちの気持をあらわすだろう。
仏教には、棘のあるバラなどは避けるべき、という考え方もあるようだが、それもあまり深く考えることはないようだ。
アパート・マンション暮しではなかなかできないが、庭に咲いている花を摘んで墓参りに行くなんていうのは、どこかゆかしい感じがあっていい。庭で、故人が好きだったバラの花を摘んで、墓に詣でるというのは、花屋まかせにはない情がこもっているようにおもうが、どうであろうか。
仏花の定番である菊
仏花の定番は菊であるが、これは菊は丈夫で長持ちし、枯れても花が散りしかないところが選ばれる要因の一つになっている。しかし、この菊が一般庶民になじみ深い花になったのは江戸時代だそうで、それ以前、平安の頃などは、宮廷などごく限られた貴人の間でのみ栽培・鑑賞されたようだ。平安期の才女・清少納言の「枕草子」にこのように書かれている。
「暁方より雨すこし降りて、菊の露もこちたく、おほひたる綿などもいたく濡れ、うつしの香ももてはやされたる」
これは九月九日「重陽の節供」の朝のことで、「おほひたる綿」というのは、前の晩から菊にかぶせておいた真綿のことである。なぜ、そんなことをするかというと、この日、夜露と菊の香りのしみこんだ綿で体を拭けば、邪気がはらわれ、不老長寿を得ることができるという言い伝えがあったためである。それが、夜露と明け方の雨で菊の花は濡れ、菊にかぶせた綿はそれをたっぷり吸って、移り香が一層濃く染みこみ、みんながよろこんだ、というわけである。
仏花に特別な決まりがないとはいえ節度は大事
仏花の定番は、菊のほか、小菊、カーネーション、リンドウ、グラジオラス・ユリ、キキョウなど様々であるが、最近では、手向ける花も、色鮮やかに、美々しいものになってきている。
質素な、つつましい印象を与える花もいいが、これはこれで故人をおもう気持のあらわしかたの一つだろう。とは言え、「派手好きな人だったから」とまるで新装開店のお祝いのような豪華な花束を供えるのはどうかとおもう。また、なかには、「いつまでも咲いているから」と造花を手向ける人もいて、これでは故人がよろこぶかどうか若干疑問である。
故人ではなく、私達に向かって咲く仏花
ところで、私たちは故人のために墓に花を供えるのだが、実は、その花は墓には向いていず、花を供える私たちに向って咲いている。そこには、美しく咲いている花もいずれは枯れる、命あるものはいつかは死ぬーそういう命のはかなさを知り、はかないものであるがゆえに命は尊いということに想いをいたすため、という意味があるそうである。
ただでさえやりつけないお墓参りにお説教がついてはよけい億劫になるが、仏花を何にしようか思案する際、こんなことを頭の隅においておくのもいいのではないだろうか。