後南朝。通史では触れられない、歴史の闇に消えた悲劇の天皇、皇子、そして忠臣たち。この後南朝が生きた証を立てている人たちが今なお存在する。人が本当に死ぬとはどういうことか。語り継ぐこと、「祀る」ことの意味を考える。

後南朝とは 南北朝の基礎知識
後南朝とはその名の通り、南北朝時代の一方の雄、南朝のその後ということになる。歴史好きでない向きにはあまり聞いたことがない用語かもしれない。まず簡単に南北朝時代をおさらいすることを許されたい。鎌倉時代、朝廷は大覚寺統と持明院統の派閥に分かれ対立していた。そのうち大覚寺統の後醍醐天皇が足利尊氏、新田義貞らを擁して鎌倉幕府を滅ぼす(1333)。その後、後醍醐帝による親政となるが(建武の新政)、欠陥が多く武家の反抗を招き、武家の棟梁たる尊氏も反旗を翻し3年で瓦解。尊氏が擁する持明院統の北朝と、吉野に落ち延びた後醍醐帝が建てた南朝による「一天両帝」が並び立つ大混乱となった。その後、南朝は新田義貞、楠木正成、北畠顕家らの名将が次々と討死し、尊氏が室町幕府を開くと勝敗は明らかとなった。南朝はカリスマ・後醍醐の死後も抵抗を続けるが、3代将軍・義満により南北朝は合一され南北朝時代は終焉した。
名ばかりの南北合一と後南朝の誕生
ここまでが一般的な学校などで習う通史である。しかし南北合一とは名ばかりだった。北朝と交替で皇位を継承するとの約束を反故にされた南朝勢力は、吉野で再び蜂起。さらに御所を急襲し天皇の証である「三種の神器」のうち「鏡」を除く「剣」と「神璽」(勾玉)を奪い去った(禁闕の変 1443)。このうち剣は発見されたものの神璽は持ち去られ、以後15年に渡り都の朝廷は神器が揃わない状態が続いた。この辺りからの南朝勢力がいわゆる「後南朝」である。
長禄元年(1457)12月、神璽奪還計画が始動。6代将軍・義教を暗殺した罪で没落していた赤松氏一党が、お家再興を条件に吉野に攻め入った。彼らは南朝後胤・一宮、二宮を討ち神璽を奪還したものの、地元の郷士に討たれ奪い返されてしまった。その後、再度の挑戦で成功。神璽は北朝に戻り南朝の血統は潰えた(長禄の変)。この一宮・二宮は自天王・忠義王とも呼ばれている。
後南朝の歴史はもうしばらく続く。いわゆる応仁の乱(応仁・文明の乱)の際、西軍・山名持豊(宗全)が、南帝の血筋とされる人物を担ぎ出す算段を整えていた。だが持豊が死去すると、その人物の存在は歴史に登場しなくなった。ついに後南朝は本当の意味で終焉を迎えたのだった。
500年以上続く秘祭 川上村「朝拝式」の全貌
毎年2月5日、奈良県奥吉野 川上村では「朝拝式」と呼ばれる祭祀が行われる。後南朝の血統を受け継ぐ皇子、自天王(一宮)・忠義王(二宮)を祀る儀式である。自天王の御首が葬られたとされる、後南朝の菩提寺・金剛寺と忠義王が居を構えた福源寺の2カ所で執り行われる。
朝拝式を行うのは赤松党の刺客を討ち取り、神璽を奪い返した遺臣たちの末裔である。彼らは「筋目」と呼ばれ、500年以上絶えることなく伝統の儀式を守り通してきた。現在の皇室は北朝の末裔であり、南朝を偲ぶ朝拝式は秘祭として続いてきたが、現代では一般の観光客にも解禁されている。祭祀は十六八重表菊紋の裃を着用した「筋目」の代表が金剛寺内の自天王神社を参拝した後、宝物庫が開かれ、自天王のものと伝わる鎧や兜などを拝する。
実はこの自天王と忠義王、南朝の後胤であるとは学術的には立証されていない。後南朝関係の史料は極めて乏しくはっきりしたことはほとんどわかっていないのだ。山名持豊が擁立しようとした「南帝」も南朝4代目・後亀山天皇の皇子・小倉宮の血筋とされてはいるが出自は不明である。宮内庁も川上村の「自天王、忠義王の墓」を認定していない。
しかしである。吉野の山奥は想像以上に厳しい環境だ。後南朝の「御所」も掘っ立て小屋に毛が生えたようなものだっただろう。仮にも皇族である。幕府に降ればそれなりの生活はできたはずだ。それでも自分たちを正統と信じる後南朝の後胤・遺臣は諦めなかった。地元の郷士たちも彼らを崇め仕えた。朝拝式には悲壮な決意で吉野に籠もった後南朝への想いが込められているのだ。井沢元彦は、500年も自天王の霊を守ってきた人たちの方を信じると書いているが、筆者も同感である。
なお、自天王が居を構えた奈良県 上北山村にも自天王が眠るとされる「北山宮御墓」がある。こちらの墓は宮内庁が認定しているもので、毎年長禄の変のあった12月2日に祭祀が行われている。墓のある龍川寺には、後醍醐天皇による複製と伝わる「草薙剣」が奉安されているという。
また、天河神社で知られる奈良県 天川村でも「朝拝式」が行われている。こちらは南朝初期、後醍醐天皇の皇子・後村上天皇の流れである。コロナ禍での中止を経て、今年4年ぶりに再開した。南朝歴代天皇の身辺警護を務め、献身的に尽くした「南朝旧臣 位衆傅御組(いしゅおとなぐみ)」の末裔が、後醍醐天皇から始まる南朝4代の天皇を偲ぶ。
いずれも人口減少の危機に直面しながらも、伝統の維持に務めている。南朝・後南朝の遺臣の志は21世紀でも消えていないのだ。しかし500年である。もはや執念すら感じる。なぜそこまでして続けていくのだろうか。
「人が本当に死ぬ」とは 忘れ去られない存在の証
人が死ぬとはその人の存在そのものが忘れ去られることだ。その人が確かに存在していたことを証してくれる人たちがいるなら、その人は真に死ぬことはない。朝拝式の伝統が続く限り、歴史の闇に消えた敗者、後南朝の霊もまた生き続けていく。
あるいは後南朝だけではないのかもしれない。悲劇の英雄として表の歴史に名を残す南朝の忠臣たち。護良親王は軍事的才能を持ちながら父・後醍醐に疎まれ、幽閉先で足利直義の手の者に討たれた。楠木正成は必勝の策を却下され、負けるとわかっている戦いで忠義を全うした。北畠顕家は一度は尊氏を完封なきまでに破った実力を持ちながら、21歳の若さで命を散らした。彼らの霊もまた朝拝式を500年継続している「忠臣」たちに涙しているのではないだろうか。彼らの魂も後南朝の遺臣たちと共に生き続けているのである。
歴史に消えし人々を語り継ぐ日本人
歴史の中に消えたはずの人たちを、今も語り継く人たちがいる。日本人は儚さに美しさを憶える民族である。南朝、後南朝の哀史はその魅力に満ちているといえるだろう。義務でも慣習でも同情でもなく、そこに美しさを見出す心性の中に、彼らはこれからも生き続けていくのである。
参考資料
■森茂暁「闇の歴史、後南朝ー後醍醐流の抵抗と終焉」角川書店(2004)
■井沢元彦「天皇になろうとした将軍」(1998)
■「天皇の本」学習研究社(1998)
■奈良県歴史文化資源データベース「朝拝式」
■「」奈良テレビ放送(2024)
■「先祖の精神受け継ぐ 天川村で4年ぶり朝拝式」奈良テレビ放送(2025)