医学がいかに発達してもなお不治の病を根絶することはできない。病気の治癒は古来より人々が宗教にすがる目的のひとつだった。数多い仏教の如来・菩薩・天部の中でも「医」を専門とする薬師如来は衆生にとって大きな存在だった。
薬師如来とは
薬師如来は大医王仏とも言われ、すべての病を治癒し病人を救うとされる。如来の中では稀な現世利益の仏である。如来とは菩薩が修行し悟りを得て昇格した位で、現世を超越している存在である。観音菩薩などは現世と交わるためにあえて如来になっていないとされる。薬師如来は菩薩の頃に12の誓願を発し、これを体得したことで如来となった。病の治癒はこのうちの第7願にあたるが、「薬」の名の通り、病気治癒を専門とする仏として崇敬されている。また、東方の「瑠璃光浄土(浄瑠璃光世界)」の教主でもあり、眷属の天部、十二神将が薬師仏を守護している。浄土といえば阿弥陀如来の「西方極楽浄土」が有名だが、「西方」というように、浄土には東西南北すべてに存在するとされている。薬師如来はその一端を担っているのである。
薬師信仰と現世利益
仏像では奈良の薬師寺の本尊や、法隆寺の薬師三尊像などが有名である。薬師三尊は日光・月光菩薩を脇侍として従えており、平安時代以降、薬師像の左手は薬壺を持つようになった。薬師像はそのほとんどが病気治癒を願って建立されたものである。阿弥陀如来像が死後の極楽往生を願って、大日如来(毘盧遮那仏)が国家鎮護のために建立されたのに対し、薬師如来はその名の通り、病気の治癒を願った。薬師寺と法隆寺の薬師像は、それぞれ持統天皇、用明天皇の平癒祈願のためと伝えられている。なお、薬師信仰は日本以外ではほぼ見られないらしい。日本における仏教受容の歴史が身分の差を問わず、現世利益を期待するものであったことがわかる。その代表といっていい利益が病気治癒であった。現代でも新興宗教は病気治しを看板にしていることが多い。
薬師経と続命法
日本ではおなじみの薬師如来だが、登場する経典は玄奘三蔵(602〜664)が漢訳した「薬師瑠璃光如来本願功徳経」(薬師経)の他、義浄(635〜713)訳「薬師瑠璃光七仏本願功徳経」(七仏薬師経)など数点。知名度に比してかなり少ない。「薬師経」は釈迦が文殊菩薩に薬師如来と瑠璃光浄土について語る内容で、薬師如来の真言を唱えることで無病延命を得られる。そして、寿命が尽きた後は瑠璃光浄土に生まれて悟りに至ると説く。また病気治療における衛生の大切さに触れており興味深い。後半では薬師如来を供養することで瀕死の者を救う「続命法」が説かれている。重篤に陥った者には、薬師像に対して薬師経を49遍読誦し、49本の灯明を燃やす、薬師像を7体造る…などにより、意識の回復や命の継続が可能になるという。そして薬師経を唱える者は十二神将が守護するとも言われている。一方、「七仏薬師経」には七仏薬師法という秘法が伝わっており、やはり7体の薬師如来像を造る。安産・治癒を祈るもので、「元三大師」の名で知られる天台宗の僧侶・良源(912〜985)が、右大臣・藤原師輔に修した。
あらゆる「病」を治す仏
「お薬師さん」がいる寺院は多い。何の「病」も無い人はいないだろう。病といっても医療的な病気だけが病ではない。貧困や飢餓、様々な災難も心身に悪影響を及ぼす恐るべき「病」といえるだろう。薬師仏の12請願はそれら「病」をすべて癒やすためのものだ。薬師如来の両脇に日光・月光菩薩が控えているのは、昼夜を問わず、衆生に救いの手を差し伸べていることの証である。薬師如来は観音菩薩や地蔵菩薩らに近い、悩める人間に寄り添う仏なのである。
参考資料
■薬師瑠璃光如来本願功徳経
■奈良薬師寺 公式サイト
■中村元・他「岩波仏教辞典 第三版」(2023)