出でて去(い)なば主(ぬし)なき宿(やど)となりぬとも
軒端(のきば)の梅よ春を忘るな
という和歌がある。これは鎌倉幕府の三代将軍・源実朝(1192〜1219)によるもので、歌意は、「もしも自分がいなくなってしまったら、ここは主のない家になってしまう。それでも軒先の梅たちよ、春を忘れず、花を咲かせてくれ」というものだ。しかもこれは、日本三大御霊のひとりとされる菅原道真(845〜903)が901(昌泰4)年、大宰府(政庁(役所のこと)を表す場合は「太」ではない。現・福岡県太宰府市、筑紫野市)に左遷が決まった際に詠んだとされる和歌、
東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花
主(あるじ)なしとて春な忘れそ
(東から春風が吹いて来たら、梅の花よ、その香りを大宰府まで送ってくれ。
主人がいなくても、春を忘れるな)
の本歌取り(ほんかどり。古歌の言葉や趣向を借りて、新しい歌をつくること)だと言われている。しかもこの歌は、実朝の「辞世の歌」でもあるようだ。
順調だった源実朝
当時26歳の実朝は建保7(1219)年1月27日、甥の公暁(くぎょう、1200〜1219)に暗殺された。大雪だったというその日に、官職としてはナンバー3に充当する右大臣(うだいじん)に昇進していた実朝は、清和(せいわ)天皇(850〜881)を祖とする「清和源氏」ゆかりの、鎌倉・鶴岡八幡宮で催された式典に出席した。冒頭の句は、お付きの宮内兵衛尉公氏(くないひょうえのじょうきんうじ、生没年不詳)が式の前に実朝の髪を梳(す)いた際、実朝が自身の毛を1本抜き、公氏に与え、詠んだものだという。「異例のスピード出世」を寿ぐ、「おめでたい」式に出る前に詠むような「内容」とは到底思えないが、「武士」でありながら、「和歌」「蹴鞠(けまり)」「官位」など、「貴族趣味」「朝廷」寄りの実朝に対し、荒々しい「武士」を自認する周囲からの「不穏な空気」を敏感に感じ取っていたため、「いずれそのうちに」命が断たれるだろうと予見していたのか。それとも、後の『平家物語』(1309年頃)の「諸行無常(しょぎょうむじょう)」「盛者必衰(じょうしゃひっすい)」ではないが、多くの官人が憧れてやまない高位を手に入れ、それを祝う厳粛かつ晴れやかな儀式に参列しつつある「今」だからこそ、逆にこの「幸せ」が長続きするものではないと思い、勢力争いに敗れ、異郷で不本意な晩年を生きざるを得なかった菅原道真に自身を重ねたのかもしれない。
三大祟り神(菅原道真・平将門・崇徳天皇)との共通点
その八幡宮の正殿に向かう石段のそばに、「父・頼家(1182〜1204)の仇!」と、実朝が現れるのを公暁が潜んでいたという言い伝えがある、樹齢1000年、幹回り6.8m、高さ30mほどの「大銀杏(おおいちょう)」があった。残念なことに平成22(2010)年3月10日、前日からの雪まじりの強風で倒壊してしまった。しかし幸いなことに、根本から新芽が芽吹き、枯れることなく今も元気に育っているとのことだ。大銀杏の陰に公卿が潜んでいたことは、史実か否かは判然としないという。江戸時代につくられたものという説もある。いずれにせよ、一連のセレモニーが終わり、夜になった時、石段を降りようとしていた実朝は、公暁に斬首された。
このような悲劇的な出来事が起こった鶴岡八幡宮そのもの、或いは大銀杏でも、何故、「呪いの場所」、関わると「死」につながるなどと、多くの人が避けたがる「忌(い)み地」…等々にならなかったのか。また、日本の「三大祟り神」として知られる、菅原道真・平将門(903?〜940)・崇徳(すとく)天皇(1119〜1164)と実朝はどう「違う」のか。
実朝も「三大祟り神」たち同様、非業の死を遂げている。しかし実朝は祟り神たちのように、偶然か「超常現象」なのかはともかく、生前の彼らの「周りの人」が急死したり、世の中に疫病が蔓延したり、地震や旱魃・大雨などの天変地異が発生したり、憤怒の表情の「霊」が現れたり…などの「伝説」「言い伝え」が後世につくられる、または言い残されることがなかった。何故なのか。
キャラが違った
それは言うまでもなく、「三大祟り神」たちと実朝の「キャラ」が大きく異なるからだ。
特に「新皇(しんのう)」を自負し、当時の腐敗した官人たちに反旗を翻し、勇猛果敢に東国の常陸(現・茨城県)・下野国(現・栃木県)・上野国(現・群馬県)の国府(現在で言う地方行政機関)を制圧した平将門の生き様とは真逆だ。
確かに、死の直前には右大臣昇進に固執するなど、「名誉欲」が強かった実朝ではあった。しかしそれは今日我々がよく耳にする、個人的な「承認欲求」を満たすためというよりも、「清和源氏の正統は自分が終わりで、継ぐべき子孫がいない。だからできる限り高位高官に就いて、自分の名前を少しでも上げておきたい」という、未来に継承される「イエ」への思いによるものだった。しかも実朝は、冒頭の句ではないが、『金塊和歌集』(1213年)という、700首近い自作の歌を編んだ本が1冊出来上がるほど歌作を愛し、造詣も深かった。もちろんそれは祟り神の一神・菅原道真に極めて「近い」ありようだが、寛平6(894)年に、損やリスクを鑑みた「現実的」な視点で、周囲の反対意見を押しとどめ、遣唐使廃止を宇多天皇(867〜931)に進言した道真とは異なり、東大寺再建に従事していた宋の工人・陳和卿(ちん・わけい、生没年不詳)に「乗せられる」格好で、渡宋計画を立て、大船を建造させた。人選も済ませ、「準備万端」だったにもかかわらず、どういうわけか船は一向に動かない。結局実朝は、大海に出て行くことを断念した。この点から、実朝の方が道真よりも「文学的」「ロマンチスト」だったと考えられる。
争いの機会が比較的少なかった
次に実朝と崇徳天皇と比較してみよう。彼は「天皇」であるから、和歌の素養は十二分に有していた。百人一首の、
瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ
(川の瀬の流れがとても早く、岩に当たってその流れは別れてしまっている。その川の流れのように、今あなたと私は離れることになってしまったが、いつか又、きっと会おう)
が有名だが、崇徳天皇の場合、1156(保元元)年の保元の乱において、弟である後白河天皇(1127〜1192)との対立、そして敗北。流された讃岐国の鼓岡(つづみがおか。現・香川県坂出市)では「中央復帰」に虎視眈々としていたというよりもむしろ、極楽往生を願い、3年間、「五部大乗経」の写経に勤しんでいた。そしてそれを京の石清水八幡宮か紀伊国(現・和歌山県)の高野山、或いは父・鳥羽法皇(1103〜1156)の御陵に奉納したいと願った。しかし勝者・後白河天皇が治める朝廷からは「不吉」などと拒絶され、わざわざ送り返されてきた。それに激昂した崇徳天皇は、「日本国の大魔縁となって、皇を取って民とし、民を皇とす」と誓い、その文言を、手元に戻った写経の巻物に血書し、海に沈めたと伝えられている。
実朝の場合、公暁に突然襲われ、命を絶たれてしまったとはいえ、それ以前に、崇徳天皇のように、仇敵たちから屈辱的なことをなされたわけではなかった。「権力者」ゆえに「敵」が多いのは実朝でも例外ではなかっただろうが、当時の実朝は幸いなことに、「まわり」の「敵」と崇徳天皇のように、「争う」機会はなかったのである。
死後が安泰だった
また、実朝の「後」が、「安泰」「磐石」だったことも大きいだろう。殊に「尼将軍」とも称された母・政子(1157〜1225)の「イエ」、伊豆国(現・静岡県)の豪族・北条氏が「執権」となり、「鎌倉幕府」を114年、存続させたことは、1963(昭和38)年に暗殺された、アメリカ大統領のジョン・F・ケネディ(1917~1963)一家のように後世の人々が実朝や「源氏一門」の「不幸」を「呪い」に、そして実朝を「祟り神」に変貌させる「余地」がなかったと言える。
とはいえ予兆があった源実朝の死
とはいえ実朝の「死」について、歴史書の『吾妻鏡』(1300年頃)では予兆がいくつか記されている。実朝が亡くなる2日前に鶴岡八幡宮に詣でた、幕府方の御家人・源頼茂(よりもち、1179?〜1219)が奇妙な夢を見た。1羽の鳩が頼茂の前に現れたと思ったら、1人の童が鳩を杖で打ち殺した。そして童は、頼茂が着ている衣の裾を、血がついたままの杖で打ったという。目覚めた後、頼茂は陰陽師にその夢を占ってもらったところ、「不快」という結果が出た。「後追い講釈」で考えるとしたら、「童」は実朝を暗殺した公暁のことで、「鳩」は鶴岡八幡宮の使いを意味していたことになる。
更にその当日、お付きの大江広元(おおえのひろもと、1148〜1225)は何故か、涙が止まらなくなった。それを彼は「禍事」の予兆と捉え、実朝に、束帯の下に腹巻きを着るように頼んだ。次に実朝自身が、冒頭の「辞世の句」を詠んだ。また、鶴岡八幡宮に入ったところ、鳩がしきりに鳴き、実朝が牛車を降りる時には、帯していた剣が折れてしまった。しまいには、2代目執権・北条義時(よしとき、1163〜1224)が鶴岡八幡宮に参ろうとした際、白い犬がいるのを目にした。その後意識朦朧となり、お付きの御家人・伊賀朝行(ともゆき、生没年不詳)に伴われて退出したという…
これらの「予兆」は、せっかく鎌倉幕府を守護する八幡神が救いの手を差し伸べているというのに、それに実朝や周りの人々が全く気づかぬまま、儀式に参加してしまったことから、「起こった」ということを暗示してはいるものの、ただ「それだけ」だ。実朝の死、公卿への怒りから、八幡神が「荒ぶる」、そして天変地異をもたらしたこともなかったようだ。
それでも呪われることはなかった源実朝
その結果、「殺人現場」とされる鶴岡八幡宮か、公卿が隠れていたという銀杏の大木に対して、東京・大手町に所在する将門の首塚を取り壊そうとすると死者が出た云々と類似した、「実朝の呪い」伝説が存在しないのもまた、同様、長く続いた北条氏の執権政治のたまものだろう。しかも鶴岡八幡宮そのものも、鎌倉幕府が滅亡してからも、「寂れる」ことなく、「東国武士の守り神」として、室町~戦国~江戸時代まで崇敬の対象だった。しかもそれは、「武士階級」が存在しない今日でも、続いている。
「文明開花」した明治以降も、「鎌倉」という「場所」は、東京の「浅草」「上野」、或いは京都・奈良の古刹・名刹ともまた違う、海に近く風光明媚で、とはいえ横浜や神戸などのように、「国際貿易港」「工業化」等々の「最先端」でありつつも「不特定多数の人々」が行き交う、それゆえの喧騒に満ちた「港湾都市」にならなかった。「避暑地」「観光地」としての「場所」のありようゆえに、大佛次郎(おさらぎじろう、1897~1972)、川端康成(1899~1972)などの文豪たちや華族・前田利嗣(としつぐ、1858~1900)侯爵など、富裕な人々に愛される「場所」となり、鶴岡八幡宮がそのシンボルの一角を担ったからだろう。そのような「場所」だったからこそ、今現在に至るまで、鶴岡八幡宮に今日で言う「事故物件」「忌み地」などのマイナスイメージが付与されなかったのだ。
この先はわからないが…
そうは言っても、今後どうなるかはわからない。
地理学者・民俗学者・文化人類学者の佐々木高弘(1959~)は『怪異の風景学 妖怪文化の民俗地理』(2009年)の中で、「風景認識の三角形」を示した。二等辺三角形の右底辺を「外的世界」である「第一の風景」とした。それは、誰にでも同じように見えている風景のことだ。一方、左底辺を「頭の中」の「内的世界」である「第二の風景」、すなわち「怪異の風景」と定めた。これは「見える」人にしか見えない世界だという。「頭の中」と「外的世界」を半分に分かつのが、我々の「身体」である。そしてこの2つの頂角に立つのが、「第三の風景」こと、「怪異の見える風景」だという。「見える」という言葉から、「誰にでも」見えるようになったという意味だが、「怪異」を人に「見える」ように「作用する」のが、隠喩や類似記号だ。また「怪異」が「見える」人々は、個人的なものから集団的なものまで、多岐に渡るという。しかも「怪異」を人に可視化させる「隠喩」や「類似記号」は、社会が変動するときに生み出されやすいとのことだ。それは何故かというと、変化に満ちた社会においては、旧知の価値観や知識では理解不能なことが起こりがちだからだ。そうしたときに、人は「伝説」「怪異」をつくり出し、「理解不能なことが起こった」ことの理由や動機にするのだ。しかもその「理解不能なこと」は、「理解不能」であるがゆえに人の心を不安・混乱に陥れる。心の「安定」をもたらすため、一連の出来事を「納得」したい人々は、誰かがつくり出した「伝説」「怪異譚」を信じるようになる。信じない、その話そのものを知らない人々を、「無知」「遅れている」と見下す場合もあるだろう。こうした心の動きは大昔にとどまらず、まさに今日の「都市伝説」ブームや「フェイクニュース」の急激なかつ迅速な「生成」「伝播」「受容」を示してもいる。だが、その反動だろうか。「別の面白そうなこと」が誰かによって生み出されたら、或いは、「衝撃的な事件」が発生したら、すぐに先の「伝説」は忘れ去られてしまう。それは何百年にも渡り、「三大祟り神」たちにまつわる「伝説」「怪異譚」を「受容」「伝播」「継承」してきた人々の「畏怖」や「情念」の深さを思えば、実にはかないものだ。
最後に…
非業の死を遂げたのは事実にしても、実朝という人物は恐らく、「祟り神」として後世の人々から畏怖の対象となることは望んでいなかったと、筆者は思う。もちろん、「歴史」は哲学者の野家啓一(のえけいいち、1949~)によると、「語る」という行為を媒介することによって構成される「物語」で、「物語」としての「歴史」は、特定の文脈の中で想起されるというが。22世紀、23世紀…の日本において、その時代のありようが「作用」することによって、源実朝や鶴岡八幡宮の「語られ方」「捉え方」「見られ方」はどのように変貌しているだろうか。
参考資料
■全国神社名鑑刊行会(編)『全国神社名鑑 上巻』1977/1983年 史学センター
■沢寿郎『岩波ジュニア新書 鎌倉史跡見学』1979/1990年 岩波書店
■「崇徳上皇」『坂出市』2006年12月1日
■高田崇史『QED 〜ventus〜 鎌倉の闇』2007年 講談社
■柴田剛「『場所』/『記憶』/『物語』」水内俊夫/有限会社地域・研究アシスト事務所(編)『空間・社会・地理思想』第12号 2008年(51-57頁)高木彰彦・九州大学大学院人文科学研究院地理学講座(刊)
■佐々木高弘『怪異の風景学 妖怪文化の民俗地理』2009年 古今書院
■井沢元彦『[ビジュアル版]逆説の日本史 3 中世編』2010年 小学館
■永井晋『鎌倉源氏三代記 一門・重臣と源家将軍』2010年 吉川弘文館
■「鶴岡八幡宮:大銀杏倒れる…樹齢千年、実朝暗殺の舞台」『毎日jp』2010年3月10日
■神谷道倫『改訂増補版 深く歩く鎌倉史跡散策 上』2012年 かまくら春秋社
■鳥越幸雄『鎌倉武士と史跡散歩』2013年 株式会社パレード
■「暗殺、自殺、薬物死…ケネディ家の呪いは実在する?」『AFP BB News』2013年11月20日
■青木庸(編)『歴史と起源を完全解説 日本の神様』2014年 宝島社
■杉山一弥(編著)『図説鎌倉府 −構造・権力・合戦』2019年 戎光祥出版
■福澤徹三/糸柳寿昭『忌み地 怪談社奇聞錄』2019年 講談社
■木場貴俊『怪異をつくる 日本近世怪異文化史』2020年 文学通信
■佐々木勝「御霊(ごりょう)と伝説」野村純一・佐藤涼子・大島廣志・常光徹(編)『昔話・伝説を知る事典』2021年(108頁)有限会社アーツアンドクラフツ
■「怨霊と化した魂の行方は…意外と知らない百人一首の世界を探求<8>」『tenki.jp』2021年12月24日
■高橋慎一郎『幻想の都 鎌倉 都市としての歴史をたどる』2022年 光文社
■「東京・大手町の最強パワースポット 『平将門首塚』、参拝客に‘願い事’を聞いてみた結果」『週刊女性PRIME』2022年1月29日
■「『鎌倉殿の13人』3代将軍・源実朝、和歌の名手の政治的手腕と暗殺の謎|「鎌倉殿」とゆかりの地(第22回)」『JBpress オートグラフ』2022年10月17日
■「『鎌倉殿の13人』公暁こそ正統な後継者だった?鎌倉最大の悲劇の真実|「鎌倉殿」とゆかりの地(第23回)」『JBpress オートグラフ』2022年11月28日
■沖田瑞穂『災禍の神話学 地震・戦争・疫病が物語になるとき』2023年 河出書房新社
■「夏の終わりに没した日本最大の大怨霊『崇徳院』。その本当の姿とは」『tenki.jp』2023年8月31日
■「鶴岡八幡宮の大銀杏 〜伝説の隠れ銀杏〜」『鎌倉手帳(寺社散策)』
■「武士の都・鎌倉の文化の起点」『鶴岡八幡宮』
■「源実朝の和歌20首 【現代語訳】付き」『ジャパノート』
■「多くの文豪を育んだ別荘文化の街・鎌倉」『田舎暮らしと別荘ライフ』