キリスト教では自殺が禁じられているが、宗教改革の発端となり、プロテスタントの祖ともされるマルティン・ルター(1483~1546)が自殺を容認したという話がある。自殺は神を否定する大罪とするキリスト教の歴史にあって、改革者・ルターは何を語ったか。
自殺は大罪
キリスト教が自殺を禁じていることについて、命の大切さを説くのが宗教であるなら当然と思われるかもしれない。だが例えば仏教は必ずも自殺を禁じられているわけではない。即身仏などがいい例である。しかしキリスト教では自殺は殺人と同等の大罪だった。他人の命を奪うのも自分の命を奪うのも同じというわけである。そもそも人間の命は神のものであり、寿命が尽きる前に勝手に終わらせることは絶対に許されない。ローマ・カトリック教会ではかつて、自殺した者から教会での埋葬を禁じていた。近年においては、自殺をしてしまった人に対して、そこまで追い込まれるほどの苦しみを鑑みた寛容な態度を取りつつある。それでも自殺そのものを認めることはできない。カトリックによる安楽死や墮胎禁止などをめぐる議論はしばしば話題になっている。
自殺は悪魔の仕業
マルティン・ルターといえばカトリック支配のキリスト教世界における宗教改革が有名である。彼は教会が主導する霊感商法「贖宥状」(いわゆる免罪符)を批判し、聖書のドイツ語訳を進めた(元々はラテン語とギリシャ語)。これにより教会と知識層の占有物だった聖書を民衆が読めるようになった。ルターのカトリックに対する攻撃はやがてプロテスタントという、カトリックと並ぶ一方の流れを生んだ。さらに改革者・ルターは、カトリックが厳格に禁じている自殺についても、一部これを容認する発言をしていた。
ルターも明確な意志による自殺には神を否定する行為として批判的だった。だがそれが意識の混乱状態などで為された場合は、悪魔の働きによるものだと考えた。ルターは夫が自死した知人の女性を慰める手紙を書き送っている。 手紙には知人の夫が自死したことについて、彼は悪魔に支配されており、意志に反して自らを傷つけたのかもしれないと書いている。つまりルターは自殺してしまった人の遺族に、悪魔が悪い、罪はないのだと慰めたわけである。これは悲しむ女性に対する方便ではない。ルターは語録集「卓上語録」でも、自殺は悪魔の働きによって征服された結果なので、自殺者に責任はないと語っている。
「魔が差す」瞬間
この「悪魔」なる存在だが、中世人であるルターが単なる比喩ではなく、一種の霊的な存在として実在すると考えてもおかしくはない。そのような存在が自殺の原因などと言えば、現代の多くの人は中世人の迷信だと失笑するだろう。それでも悪魔を原因とするルターの自殺禁止論が現代人には無意味かというとそうでもない。
ルターは明確な意思による自殺はカトリックと同様認めなかった。しかし自殺をする、自殺願望を持つという精神状態は、そもそも正常とはいえない。ルターが指摘したように意識の混乱状態にあるといってよい。最後のスイッチを押すその瞬間、それは本当に自分の意志によるものなのだろうか。「魔が差す」という。自分の意志とは関係なく心の底から何かが湧き上がり、悪事を働いてしまうタイミングがある。自殺を実行するその時、背中を押す何かがある。まさに「魔が差す」瞬間、悪魔が背中を押す瞬間である。「悪魔」をサタンやベルゼバブのような堕天使として現実に存在すると考えなくても、自殺はすべて「悪魔」の仕業といってよいのではないか。
ルターは自由意志否定論で有名である。ただし、心理学や脳医学などで議論されている「自由意志」とは異なり、人間の一般的な行為には該当しない。例えば金銭のことなどについての行為は、自分で選択する自由を認めている。一方で神に関する事や、救いといった人知を超える事柄については、人間は神か悪魔の意思の下にある奴隷だとした。自殺がどちらに該当するかは断言できないが、混乱状態からの自殺が悪魔の仕業だと言うのなら、それは人知を超える範囲だろう。つまり自殺者は罪人ではなく許され、憐れみを受けるべき存在である。
「悪魔」を慰めに使ったルター
自殺を大罪とするカトリックの自殺禁止論は、死を選ぶしか道が無い人の退路を塞いだ。自殺とは絶望の果てに行われる。止むなく死を選んだ人の遺族は、大罪を犯した死者のその後の行方を案じるだろう。そんな人達にとって、ルターの「悪魔」による自殺容認論は慰めになったに違いない。ルターは思想、言動に極端なところがあり、聖人と呼ぶには難しい人物だったが、彼の宗教改革は魂を救われたい人達の祈りに答えたものだった。
参考資料
中谷博幸「マルティン・ルターと死者の「死」(2)」『香川大学教育学部研究報告』第1部 香川大学教育学部(2005)