仏教はモノに溢れモノに執着するから人は苦しむのだと説く。その「モノ」の代表が快・苦の器としての「身体」である。私たちは死体に怯え、美しい身体に惹かれる。しかし釈迦はそれを愚か者の姿だと指摘した。
遺体の映像
「このあと遺体の映像が流れます」
あるドキュメント番組にこのようなテロップが流れた。震災のニュースなどでは遺体の映像は映らないよう編集されていると聞くが、件の番組は安楽死を扱った内容である。通常の番組には流せない損傷などはなく安らかなお顔だったと記憶する。それでもなお、遺体の、つまり死者の姿を公共の電波で伝えるにはあらかじめ告知が必要であるようだ。無遠慮にスマホで撮影するような向きもあるが、総じて遺族、関係者にとって遺体には特別な想いがある。一方で他人にとってはできるなら見たくはない、忌避する存在でもある。
私たちは「死」というやがて来る事実を遠ざけ考えないように生活している。生きるということは、身体が動くということだ。永遠に動きを止めた遺体との対面は、その日常に「死」を突きつけられる。だから私たちは死体に怯えるのである。
ルッキズム
先日、保育士の女が園児に暴行したとして逮捕される事件があり、その保育士が美人だと話題になった。さらに以前、詐欺事件の容疑者である女の容姿が大衆、特に男性の眉目をさらった。女性も負けてはいない。殺人を犯して逃亡していた容疑者の男が「イケメン」とのことで話題を集めたことがあった。また90年代には当時オウム真理教のスポークスマンの役割を担った上祐氏のファンクラブが結成されたこともある。不謹慎の極みだが、凶悪な犯罪者であるにも関わらず、多数から優れていると判断される容姿によってアイドル化してしまうのは多々ある現象である。「ルッキズム」などと言われながらも「美しすぎる」「イケメン」との形容はすっかり定着した。男女問わずいつの世も美形を無視できない。男も女も見た目の美しさから逃れることは難しいということだろう。
ルッキズムの対象は顔面の造形だが、顔にはその人の内面も現れる。件の「美人保育士」は美形ではあったが目つきが鋭く、薄ら寒いものを感じた。逆にトップアスリートやエンターテイナーらが活躍している時の顔、表情は見る者を魅了する。それらも含め、確かに人間は顔であると言えるかもしれない。私たちは身体への関心を捨てることはできないのだ。この世に生きるということは、自己の身体を通じて他者の身体と交わることなのである。だがそれは人生の真実なのだろうか。
不浄観と九相図
仏教には「不浄観」という観想法がある。肉体は本来不浄なものであること、その不浄なものに囚われて、身体と、そしてこの世に執着を持つことの愚を悟るためのものだ。
釈迦は美女を前にして「糞袋」と呼んだ。随分な言い方で現代ではかなり問題発言だが、原始仏典「スッタニパータ」から抜粋すると、次のようになる。
人間の肉体は表皮に覆われていて、ありのままを見られることがないが、胃腸、肝臓、膀胱などの塊があり、鼻汁・粘液・汗・脂肪などがある。眼からは目やに、耳からは耳垢、鼻からは鼻汁、全身からは汗と垢。頭は脳髄に満ちている。悪臭を放ち、種々の汚物が充満し流れ出る。花や香を以てごまかしているに過ぎない。そして、身体が死んだあとは、膨らみ、青黒くなり、墓場に棄てられて、親族もこれを顧みない。犬や野狐や狼やは虫類がこれを喰らい、鳥や鷲やその他の生きものが啄む。
愚か者は、そのような不浄の塊である肉体を清らかなものだと思いこみ、その塊をもって自分を偉いものだと思い、また軽蔑したりする。だから、この世における愛欲など、身体に対する欲を離れるべきである。それができた知慧ある修行者は、不死・平安・不滅なる涅槃の境地に達した。
不浄観ではこのような身体の不浄な実態をイメージして瞑想する。九相観ともいい、そのイメージを描いた仏教絵画が「九相図(くそうず、九想図)」である。人間の死体が腐乱し白骨になるまでの様子を九つの相に分けて表現したもので、臨終から腐敗、さらに蛆虫や鳥獣に食われ、最期には白骨となっていく様が生々しく描かれている。そんな空しいものへの執着は捨てよというわけだ。確かに死体を忌避し、ルッキズムに陥る私たちは、身体をはじめモノに振り回されて右往左往する、まさに愚か者である。
価値観としての「不浄観」
釈迦は愚か者と言うが、それでも仏教に身体を蔑む瞑想や絵画があの手この手で存在するのは、身体への執着がいかに手強いかという証である。私たち凡人は身体への執着、つまりこの世に生きることへの執着からは中々逃れられそうにない。「所詮は糞袋」との考えは、さすがに遺体を蔑むのは抵抗があるし、愛する人や親しい人に向けるのは難しい。だが瞑想ではなく価値観としての「不浄観」と捉えれば、ある場面では楽に生きられる救いのツールになるかもしれない。
参考資料
■中村元訳「ブッダのことば-スッタニパータ」岩波文庫(1984)
■WEB版新纂浄土宗大辞典