キリスト教では自殺が固く禁じられている。倫理と道徳を説くのが宗教であるなら当然と思われるかもしれないが、仏教は必ずしも自殺を禁じられているわけではない。場合によっては自殺を容認するケースもある。
仏教とキリスト教の自殺観
同じ世界宗教でも仏教とキリスト教の違いは絶対者の有無である。キリスト教では命とは創造主たる神より賜ったものであり、人間の都合でこれを短縮することは大きな罪になる。ユダヤ教から続く一神教の厳しさは徹底しており、人間は神から「生きることを許されている」存在なのである。
対して仏教では絶対者の存在は否定され、人間は他者との関係によって成り立つ「縁起」の理を支持する。自己もまた他者にとっての他者であり、ひとりひとりの命が得難いものだとする。自己もこの世を構成する縁起の輪のひとつであるから、自殺は他者(他者にとっての他者=自分)の命を軽視する行為になる。しかし生きることは絶対者の命令だとするキリスト教に比べるとわかりにくくやや強制力に欠ける。当の釈迦も経典によって言動がかなり変わっている。
反生命至上主義
仏教には「八万四千の法門」と言われるほど様々な宗派があり解釈があるが、根本は執着を捨てることである。欲、煩悩があるから人は苦しむ。この世のすべての欲から執着を捨てることで解脱に至ると説く。大金や権力、名声などは一度手にすると失うことが恐ろしくなる。権力者ほど疑心暗鬼になり周囲に心を許せなくなるという。最初から持っていなければ楽なのだが、持っていなければ欲しくなるのが人間だ。つまり持っていてもいなくても人間は執着する。「愛別離苦」という言葉もある。愛する者との別れによる苦しみである。愛する者がいなければ別離の苦しみは存在しない。僧侶が出家するのはこのためである。これらの理屈でいくと死にたくない、生きていたいという生存欲もこの世に対する執着ということになる。仏教はこの世に生きることを最高の価値とはしない。
その考えを基に釈迦が自殺を容認したとの説話が伝えられた。仏典によると執着を捨てる修行の結果、弟子達が自死する行為が相次ぎ、そのような行為を釈迦が禁じたという。ところが一方で別の仏典には容認したと伝えられている。ある出家者は6度解脱の境地に達したが、6度その境地を見失った。そして7度目の解脱に達した際、また見失うことを恐れ命を絶った。これを釈迦は認めたとされている。
このように仏教の自殺に対する態度は曖昧で一概には言えない。日本では「即身仏」というミイラが存在するが、今なら自殺である。いずれにしても「生きる」ことこそが最大の価値である、生命至上主義を無条件に受け入れているわけではないことは確かである。
自殺是認の条件
木村文輝(愛知学院大学)によると、仏教が自殺を是認するケースは3つの条件のいずれかに該当する。
1.死期を目前にした者が、この世で為すべ きことを為し終えたと自覚している場合。
2.自らの生命を犠牲にしても他者を救おうとする場合。
3.人生の目標の実現のために、 自己の全存在を賭ける場合。
「1」は釈迦自身のことだろう。80歳を迎えた釈迦は自身の死期が近いことを自覚していたにも関わらず、これまで説いてきた真理をできるだけ多くの人に伝えるため最後の旅に出た。覚りを得て「ブッダ」(目覚めた者)となった釈迦は既にこの世への執着はなかった。あとは肉体の寿命が尽きるまで教えを説くのみだった。
「2」はいわゆる「菩薩行」である。法隆寺・玉虫厨子の「捨身飼虎図」が該当する。釈迦が前世において飢えた虎とその7匹の子のために身を投げ与えたという物語が描かれている。獣に身を投げ出すのは究極の慈悲だが、親が子を救うために命を投げ出したとしたら、これを自殺と呼ぶのは酷だが、生きることを第一とする生命至上主義には反しているといえる。
「3」は先ほどの即身仏や、比叡山の千日回峰行などを指す。千日回峰行は成就できなかった場合、自死するための短刀を忍ばせているという。何らかの道を極めるために、命を削る覚悟を持って挑む行為は自死の要素を孕んでいる。
このように仏教では自殺を認めるといっても、それなりの理由が前提になければならず、自分勝手な感情で頂いた命を捨てることはやはり許されていない。とはいえ、自殺を絶対に禁じるローマ・カトリックなどと比べると遥かに柔軟ではある。ここから安楽死、尊厳死をめぐる議論も生まれる余地がある。
2つの「いのち」
仏教は例外なき生命至上主義を否定する。仏教の見地では「いのち」の定義はひとつではない。木村はこのように指摘する。
ー仏教が尊重すべき 「いのち」は生物としてのそれではなく、真の生き方に目覚めた主体的な自己、主体的な 「いのち」である。この2つの「いのち」を混同することは、仏教の本質を見失うことに他ならないー
「いのち」はふたつある。人間以外の生物は生存するための生命=「命」しかないが、人間にはただ生きるだけの「命」を超えた、大きな「いのち」がある。ソクラテスは「善く生きること」を説きながら毒杯をあおった。生物として生きるなら弟子や友人の説得に応じて脱走したはずである。仏教も然るべき理由があるなら、自ら死を選ぶことを認める。この点、「神様に許された命だから勝手に捨てるな。大切に生きろ」というキリスト教の論理と結論も、単なる命を超える「いのち」を説くことでも同じであるといえる。
「命」を否定して「いのち」を考える
仏教が経典によって主張が異なるのは、釈迦が相手の状況や人格に合わせて言い方を変える、いわゆる対機説法を用いたからである。自殺に対しても、例えば自殺志願者に、頭ごなしに倫理や道徳の立場から命の大切を説いても無駄だろう。その人に合わせて説得する必要がある。逆説的だが自殺が許される場合もあるとすることで「いのち」を考えさせられるのである。
参考資料
■木村文輝「自殺を是認する仏教の立場-人間の尊厳の具現と安楽死問題-」『生命倫理』Vol.18 No.1(2008)
■笹森行周「現代の自殺問題に対する仏教の役割と意義」『日本佛教學會年報』75巻(2010)
■芦名定道「現代神学と安楽死の問題」『キリスト教学研究室紀要』11巻 京都大学キリスト教学研究室(2023)