人間の記憶もパソコン作業で馴染み深い「上書き保存(overwrite save)」-既存のファイルに存在しているデータを用いて新たに修正・編集されたものに置き換えて保存されること-がなされるという。そもそもコンピュータは人間がつくったものであるため、人間の「性質」「ありよう」が色濃く反映されてしまうのは仕方のないことだ。精神科医の和田秀樹(1960〜)によると、人間の脳に「上書き保存」システムが備わっているのは、今までの人生経験においてインプットされた膨大な情報を処理できないため。そして不快な過去の記憶が「思い出せない」ことによって、人間の精神の健康を保つことができるからだという。もちろん、過去の大切な情報を「取り出せない」ことによる、さまざまなデメリットも存在するが…この「上書き」は、人間の「記憶」に限らず、人間が「住む」「働く」「行く」「帰る」「去る」…など、様々な活動がなされる古今東西の「場所」でもまた、「人間」が介在する「ところ」であるため、「人間」によって、意図的、または結果的になされることがある。
垣生羅漢百穴の歴史を振り返る
福岡県北部の中間(なかま)市に、「垣生羅漢百穴(はぶらかんひゃっけつ)」こと、「垣生羅漢山横穴墓群(らかんさんおうけつぼぐん)」という遺跡がある。羅漢山を中心に50基の横穴墓が点在している。1926(大正15)年に、「垣生公園内に古墳群が点在している」と認識された。それらは今からおよそ1400年前、古墳時代後期(6〜7世紀半ば)に造営されたと考えられている。副葬品として金環・勾玉・管玉(くだたま。孔(あな)を貫通させた円筒形の玉。紐を通して繋いだ、今日のネックレスのような装飾品)・丸玉・鉄刀・刀子(とうす。小刀のこと)・須恵器(すえき)などが出土している。
しかも「ここ」は、例えば大阪府堺市の「仁徳天皇陵」のように、「仁徳天皇(4世紀末〜5世紀前半)の陵墓」として、天災、人災、そして近年の宅地化・工業化などの開発事業に伴う破壊、崩壊の憂き目に遭うこともなく、今日に至るまで「守られ」、「変わらず」に存続してきたわけではない。
横穴式古墳とは 垣生とは
「横穴式古墳」における「横穴」とは、前漢(紀元前206〜8年)の中国に始まったとされる。日本では、古墳時代後期に全国的に広まった。それまでの「竪穴(たてあな)式」のものでは、貴人の遺骸を納めた部屋は完全に外部から遮断されていたが、「横穴式」では、外部に通じる羨道(せんどう)が設けられた。何故わざわざ設置するようになったのか。一説には、死者の葬送ならびに追悼儀礼の変化と言われている。当初は死者を埋葬した後、「死の穢れ」の忌避や「聖域」化ゆえの畏れからか、誰も二度と立ち入れなかった。しかし時を経て、その「場所」でまず、亡くなった人を葬る「初葬」が行われる。それからいくばくかの時を置いて「追葬」を行う。さらにはその死者の家族が亡くなった際は、「そこ」に葬る。今で言う「家族葬」を行うようになったため、何度も「そこ」を行き来する必要が生じ、「横穴」を設けるようになったという。
また、横穴式古墳がある「垣生」の語源は、粘土質の赤土を意味する「埴(はに)」と、高い土地を指す「節(ふ)」。つまり、「赤土の露出する崖地」を指す。大昔は「はぶ」ではなく、「はにゅう」と発音されていた。『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』(931〜938年)には「この辺り」について、「埴生郷」の記載がある。しかも「ここ」は、北東部が日本海へと続く響灘(ひびきなだ)に注ぐ遠賀川(おんががわ)左岸に位置し、その流れを一目で見渡すことができる。そのような「場所」だったから横穴式古墳がつくられたのか。それとも当時の人々によって、何らかの理由で「ここ」に古墳をつくることが定められ、人為的に大量の赤土が運ばれたのか。
有力者が埋葬されていた 中国とも関わりがあった
その変遷の結果からか「ここ」では200年ほど、土地の有力者一族やその配下たちが埋葬され続けていたようだ。それがわかるのは、ここに設けられた横穴墓には、単室のものと複室のものがある。或いは石室前面部を共有した格好で、数基の横穴墓がつくられていたりもする。そして複数の横穴墓内に、後世の人の「落書き」なのか。それとも「悪意なき修復」なのか、もともとのものの上に、明らかな加筆が見られる線刻壁画「らしきもの」が描かれていたりもするという。
更に「ここ」の周辺からは、中国の宋(960〜1279)から元(1271〜1368)の代表的な窯・龍泉窯(りゅうせんよう、現・浙江省龍泉県)製と考えられる、蓮の花びらが描かれた青磁碗が2点出土している。また、「ここ」から少し離れた迎尾(げいお)遺跡からも、11〜12世紀のものと推定される中国製蔵骨器(ぞうこつき、火葬した遺骨を納める器のこと)が発見されている。そのことから「ここ」及び「この辺り」は古墳時代で「おしまい」ではなく、中世においても、地域の「それなりの地位・立場と考えられる人々」が複数葬られていた「墓所」として機能していたことがわかる。それと同時に「ここ」周辺には、当時の北部九州における「国際貿易港」のひとつであった芦屋(あしや、現・遠賀郡芦屋町)から荷揚げされた中国大陸からの貴重な文物が、遠賀川水運によってもたらされていたことを証しする点にも注目すべきだろう。
信仰の場だった
「ここ」の「上書き」は、まだ「終わらない」。「ここ」に冠された「羅漢」について見てみよう。貝原益軒(1630〜1714)の『筑前国続風土記』(1709年)に、「羅漢山という小山あり。其側に岩窟三あり…(略)…奥の間に多く石仏を安置す」と記されている。もはや「ここ」は、古墳時代、或いは中世におけるような、過去の歴史・文化を物語る「墓所」ではなく、新たな「聖域」「信仰の場」となっていたのだ。
「羅漢」とは、「阿羅漢(あらかん)」の略称で、「悟りを開いた人」「煩悩を完全に滅した人」という意味だ。「応具(おうぐ。供養を受ける資格がある人)」、「殺賊(せつぞく。心の中の煩悩という賊を自ら殺した人)」、「不生(ふしょう。二度と煩悩の世界に(生まれて)来ない人)」とも言う。また、お釈迦さまのそばに仕えた弟子たちのことでもある。お釈迦さまが亡くなられた折、500人の阿羅漢たちが集い、その教えを遺し、世に広めるべく、力を尽くしたという。時を経て、人々の間に彼ら「五百羅漢」の信仰が始まった。またその中でも特に重要な16人の阿羅漢が「十六羅漢」として顕彰され、さまざまな絵画や彫刻に表現されてきた。そしてそれは日本に、鎌倉(1185〜1333)から室町(1336〜1573)にかけて、禅宗とともに流入した。それから江戸時代中期(1681〜1780)に再び、主に庶民層を中心に「羅漢信仰ブーム」が起こった。
「ここ」で「場所の命名」が行われる形で展開した羅漢信仰は恐らく、江戸中期のそれよりも前、恐らくは禅宗流入時のものだろう。しかも「ここ」から見て南東に位置する大分県中津(なかつ)市には、14世紀に開山したとされ、全国の羅漢寺の総本山である羅漢寺が所在する。しかも中津市には、福岡県田川郡添田町(そえだまち)にまたがる、「日本三大修験山」のひとつである英彦山(ひこさん)もある。その全盛期には、多くの修験者たちが北部九州各地を経巡っていたわけだが、彼ら、または彼らの教えを受け入れた地域の人々が何らかの理由で、「ここ」を、「土地の有力者」であることは推察されるが、誰が埋葬されたのかまではわからない「横穴式古墳」ではなく、「羅漢信仰の山」と定めたのだろう。それゆえ、横穴の周囲、そして内部には石仏が多く祀られているのだ。
四国八十八ヶ所の一つだった
「土地の上書き」はまだまだ続く。ある大きな横穴墓の入り口に、明治36(1903)年、遠賀川以西方面で開設された「遠賀川西四国八十八ヶ所霊場」の第十六番札所として「本尊 釈迦如来」と記された立札がある。そしてその右隣には、緑色に変色した古いコンクリートの上に、比較的新しい、御影石(みかげいし)と思しい献灯(けんとう)台が据えつけられている。
もともと「ここ」からほど近い遠賀郡内には、元文3(1738)年に供養塔が建てられていた、「西国三十三ヶ所霊場」。そして嘉永3(1850)年には「新四国八十八ヶ所霊場」が定められていた。そして「遠賀川西」の霊場巡りは、これら先発のものと併せ、「千人参り」という名称で、大体5泊6日の時間をかけて、毎年3月25日に行われていた。四国八十八ヶ所霊場の「ご接待」同様、地域の「役員」たちが巡礼者たちの三度の食事、宿の面倒など、一切合切をみていた。しかもその巡礼は、ごく限られた一部の人々が行なっていたわけではなく、昭和初期(1926〜1935)ぐらいまではその言葉通り、遍路姿の人々が延々と連なっていたと伝えられている。
お遍路とはもともと、讃岐(現・香川県善通寺市)出身の弘法大師空海(774〜835)が仏道修行のために、現在の四国圏内から88ヶ所の寺院を選び、霊場を開いたことに端を発する。そしてその道筋を後世の人々が「お遍路さん」となり、一ヶ所一ヶ所辿っているものだ。白装束をまとい、金剛杖(こんごうづえ)を片手に、頭にかぶった菅笠に弘法大師と共に在ることを意味する「同行二人(どうぎょうににん)」と記されているのが特徴的である。
人それぞれではあるが、その目的は主に身内や先祖の供養のため、自身が犯した罪業の禊ぎ、極楽往生を遂げるため。或いはいろいろな事情ゆえに故郷を離れ、流浪の日々を送らざるを得なかった人が救いを求めてお遍路さんになった。そしてその後、「救い」や「ゴール」なきまま何年にも渡ってさまよい歩き、霊場各地の人々からお接待を受け続けている、いわゆる「職業遍路」の存在もある。
「ここ」が「遠賀川西四国八十八ヶ所霊場」のひとつになった理由として、地域の人々の篤い信仰心によって、「四国八十八ヶ所霊場をここにも‼️」の機運がそうさせたことは言うまでもない。しかし開設前後の「この辺り」を概観しよう。「ここ」、そして「福岡」に限らず、日本全国の「文明開花」以前の「田園地帯」に対する世間一般的なイメージ、「のどか」「先祖代々伝えられたまつりごとなどの伝統を守る」「地域の密なつながり」…等々とは打って変わった「景色」「生活様式」「人の往来」等々の激しい波が「ここ」にも、押し寄せていたのである。
炭鉱とも縁が深かった
室町時代中期の1478(文明10)年に「この辺り」の農民、「垣生の五郎太」によって見つけられていた石炭が1872(明治5)年、自由販売許可が下りた。そして続々と炭鉱の開坑が見られるようになっていった。早くも明治17(1884)年には、この辺りで採掘された石炭およそ1200トンを、毎月大阪に荷出しする契約が結ばれた。その翌年には、当時最先端の20馬力の蒸気機関3基が、近在の新手(あらて)炭坑内に設置されてもいる。更には1888(明治21)年、年間6000トン以上が出炭される「ここ」周辺の坑区は5ヶ所。合計150万6211坪にも及んだ。そしてそれらでの年間総算出高は、およそ20万5000トンにも及んだ。
しかも1901(明治34)年、「ここ」から見て北東にあたる、現在の福岡県北九州市八幡東(やはたひがし)区に官営八幡(やはた)製鐵所が操業を開始した。そして「ここ」からほど近い遠賀川沿い(中間市土手ノ内1丁目)には、製鉄所に大量の工業用水を送るため、現在も稼働中の、遠賀川水源地ポンプ室が1910(明治43)年につくられていた。
「ここ」のみならず、筑豊全体における石炭絡みの事象に関しては、枚挙にいとまがない。もちろん、1891(明治24)、1901(同34)年には、遠賀川の氾濫という自然災害も起こっている。それゆえ、このような大掛かりな「変革」「変動」ゆえに、先祖代々ずっと、「ここ」に住み続けている住民たちのみならず、「ここ」で石炭産業に従事することになった「よそ」からの人々、1908(同41)年12月に発生した、近在の第二新手炭坑で発生したガス爆発事故ではないが、石炭採掘に伴う命に関わる大事故や災害への不安、更に過酷な肉体労働のみならず、「時代」そのもののスピードについていくことができず、「あぶれた」格好の人々などからの様々な「要請」で、それまでの「羅漢さん」を祀る「聖地」「信仰の場」とは若干様相が異なる、「霊場」が「ここ」に設けられるに至っただろう。
しかも「ここ」には1901(明治34)年、垣生炭坑が開かれていた。名称が途中で清美(きよみ)、宮ノ前と変わったものの、再び昭和7(1932)年には垣生に戻り、更に同13(1938)年、地域の大手炭鉱だった、中鶴(なかづる)炭鉱に買われ、「垣生坑」となった後、最終的に26(1951)年に閉山した。長きにわたる「この辺り」での石炭掘削によって地盤沈下が問題化したため、土地改良工事がなされた。その際、土砂が大量に運び出されてしまったことから、貴重な墳墓や出土品などが多く失われてしまった。しかしそれでもまだ、幸いなことに今もなお、遺跡そのものは消え失せていない。
垣生羅漢百穴の今と昔
以上、「垣生羅漢百穴」周辺における、「場所の上書き」を辿ってみた。
果たして、「垣生羅漢百穴」は「劣化」したのだろうか。「劣化」とは、性能・品質などが低下し、以前より劣ってしまっていることを意味する。その対義語として、「優化(ゆうか)」という言葉がある。それは、時間と共に性能が良くなることを言う。昨今の分譲マンション業界で、例えば三井不動産レジデンシャル株式会社がブランドコンセプトとして「Life-styling ×経年優化」を掲げている。それは建設計画地内に存する樹木や建物の一部を保全し、再利用する。それによって、「土地の記憶」を継承する。そればかりでなく、環境負荷の低減にも配慮した「アップサイクル」の発想を取り入れ、持続可能な社会の実現・SDGsへの貢献を進めていくという。その一例として、同社が令和2(2020)年に竣工した、神奈川県横浜市中区のマンション、「ザ・タワー横浜北仲」の一角には、大正15(1926)年に建てられていた、「港ヨコハマ」ならではの赤煉瓦づくりの絹製品倉庫が保存・復元され、商業棟として蘇っている。
最後に…
土地の「上書き保存」がなされ続けてきた「垣生羅漢百穴」は「劣化」したのか、それとも「優化」したのか。無責任な答えになるが、筆者の考えとしては、「何とも言えない」。自治体や市民たち、または巨大不動産グループによる「地域おこし」系の積極的な「介入」によって「ここ」が必要以上に「目立ち」、多くの人が訪れ、愛されるようになったとしたら…日本においては、京都や奈良など、国内外で大いなる人気を誇る観光地を悩ます「オーバーツーリズム」の「前例」もある。観光客が残すゴミ、昼夜を問わない大混雑や大騒ぎ。勝手に「立ち入り禁止」の場所、或いは一般の民家に立ち入ってしまう…などのリスクがある。一方で、本来「ここ」は、「古墳時代後期の地域の有力者の墓所」だった。「死」「死体」…などにつきまとうネガティヴな「怪談話」や「都市伝説」が生み出され、その結果、「心霊スポット」「肝試し」的なダークツーリズムのメッカになっても困りものだ。となると、「劣化」も「優化」もしない、「このまま」が一番いいのではないか。しかもそれが、「古墳時代後期の地域の有力者」にとって、一番の「安眠」を約束するものだと、筆者には思われる。
参考資料
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■大久保慈泉『仏教 いわく・因縁 故事来歴辞典』1992年 国書刊行会
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■濱田学(編/著)『垣生羅漢山遺跡群 福岡県指定文化財 中間市文化財調査報告書 第3集』2001年 中間市教育委員会
■長谷勝弘・濱田学・北原シズ子・須藤ちえ子(編)『郷土シリーズ 中間の炭鉱史』2003年 中間市歴史民俗資料館
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■守屋正彦『すぐわかる日本の仏教美術 改訂版』2003/2010年 東京美術
■右島和夫・千賀久(編)『列島の考古学 古墳時代』2011年 河出書房新社
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■池田善朗『地形から読む 筑前の古地名・小字』2013年 石風社
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■「いい記憶を『上書きする』」『株式会社Gakken 公式ブログ』2020年7月31日
■佐藤日向子・駒野湧一・山田周歩・北崎朋希・太田幸一・須田英男・青山和浩「価値・機能・構造モデルを用いた経年優化の記述手法及びシミュレーションモデルの構築 〜分譲マンション:サンシティを事例として〜」『Designシンポジウム2021講演論文集』2021年10月1日
■「官営八幡製鐵所120年」『グラフふくおか』No. 605 2021年
■和田秀樹「引きずるイヤな感情を『脳の仕組み』を利用して忘れる方法」『PHP Online』2022年7月15日
■「アップサイクルによりその土地固有の記憶を未来へ繋げる 『土地の記憶』プロジェクト始動 新たなすまいの付加価値創出へ 三井不動産株式会社」『PRTIMES』2023年3月29日
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■「羅漢寺」『中津市』2014年10月7日/2024年4月24日
■「お遍路とは?」『四国八十八ヶ所霊場会』
■「遠賀川」『国土交通省』
■「五百羅漢」『川越大師 喜多院』
■「四国遍路」『日本遺産ポータルサイト』
■「垣生公園内の横穴群集墓」『NAKAMAP 中間市観光案内』
■「垣生羅漢百穴」『古墳マップ』
■「垣生羅漢百穴」『福岡県観光WEB クロスロードふくおか』
■「羅漢寺」『日本遺産ポータルサイト』