自分の命より大切なものはない。大抵の人間は死の恐怖に怯え屈する。だからこそ他者を救うために自己を犠牲にする「菩薩行」という行為に私たちは感動する。一方で自己犠牲が自己満足に過ぎない場合もある。
アニメ・宇宙戦艦ヤマトに存在する二つの結末
アニメ「宇宙戦艦ヤマト」の続編(第2作)には2つの異なる結末が存在する。映画「さらば宇宙戦艦ヤマト」テレビシリーズ「宇宙戦艦ヤマト2」である。映画では地球侵略を目論む彗星帝国との激戦で主要人物の大半が戦死。主人公・古代進が単身、敵の超巨大戦艦に突入して終わる。ところがその後、テレビシリーズで映画とほぼ同じ設定の「ヤマト2」が始まった。ヤマトは犠牲を払いつつも「さらば」と異なり地球に帰還した。これには制作側の様々な事情が絡んでいるようだが、作画の松本零士が特攻を美化するかのような「さらば」の内容(思想)に納得がいかず、登場人物を生還させたかったからという話がある。松本は死に酔うより辛くても生き残ることの大切さを伝えたかったという。
松本の言い分は考えとしては正しい。特攻の安易な美化は慎むべきだ。しかし「ヤマト2」の知名度はかなり低い。ヤマトシリーズをリアルタイムで観た世代の(アニメに詳しい人を除けば)ほとんどがヤマトの続編は「さらば」だと思っているようだ。ヤマトはその後、「ヤマト2」の次回シリーズが開始されるが、死んだはずのヤマトクルーが何の説明もなく生きていることに多くの人が混乱した。新シリーズは帰還したヤマトの次のミッションになるわけで矛盾はないのだが、彼らにとってヤマトは「さらば」で死んでいたのである。「ヤマト2」は宣伝やプロモーションが弱かったのかもしれないが、何より作品として「さらば」の完成度が高かった。誤解を恐れずに言えば、他者のために命を散らす行為はやはり美しく見えるのだ。ヤマトは国や上層部に突入を命令されたわけでない。自分の意思で自分より大切な者のために命を燃やした。それは自我にしがみつくエゴが消え、菩薩の域に達した姿である。自己犠牲エンドは生還エンドより感動を呼ぶ。現実ならもちろん生きて還って欲しい。だが物語としての評価は逆になる。我々凡夫にはこのような「菩薩行」はとてもできない。できないことへの憧れめいたものがあるかもしれない。
菩薩行とは
いわゆる「菩薩行」とは仏教において、自分以外の誰かを救うために手を差し伸べる慈悲の行為を言う。「他者への慈悲のための自己犠牲」の考えである。菩薩とは「菩提薩(ボダイサッタ)」の略で、「悟り(菩提)を求める衆生(薩)」という意味で、悟りを得た如来候補生である。だが菩薩は実はいつでも悟って如来になれる。しかし自分だけが悟ってよしとするのではなく、全ての衆生が悟りを得るまで自分も悟らないと誓いを立てているのだ。観音菩薩はあえて天界から人間界へ降りたち、地蔵菩薩は地獄へ乗り込んで亡者を助ける。弥勒菩薩は遠い未来に衆生を救うために天界で修行中である。菩薩たちは自分よりも衆生のため、他者のためにと慈悲の御手を差し伸べている。
菩薩行といえば法隆寺・玉虫厨子に描かれている「捨身飼虎図」が有名である。釈迦が前世において飢えた虎とその7匹の子のために身を投げ与えたという物語で、前世の釈迦は母虎が飢えのために我が子を食べようとするのを見てその身を捧げた。虎は釈迦に食らいつき食べ尽くし、白骨が散らばっていたという。「菩薩行」という言葉は脳死後の臓器移植の是非が世間に問われた時期に取り上げられ論議を呼んだ。
そのような大げさな話をしなくても、基本的に人間は怠け者である。自分のための努力は中々長続きしない。禁煙やダイエットには大抵「○回目の」が付く。釈迦の凄さは縁もゆかりも無い者のために身を捨てたところだが、例えば家族のためとなれば、普通の人間でも自分のこと以上に本気を出すだろう。先ほどは「とてもできない」と書いたが、自分の命と引き換えに子供の命が助かるという状況下なら、虐待するような親でない限り、躊躇なく自らの死を選ぶのではないか。それはまさに菩薩行である。
自爆テロは菩薩行か
「菩薩行」に近い行為であっても「自己犠牲」の面が強調されると暴走してしまうことがある。イスラム過激派が世界各地で繰り返す自爆テロは、彼らが信じる神のためである。彼らは「神は偉大なり」と叫んで死んでいく。自分たちは「聖戦」を戦う神の戦士としての使命感を持ち、自らの死の恐怖を容易く乗り越えてしまう。
仏教では煩悩にまみれた世俗を超越することを「出世間(しゅっせけん)」という。この世を離れるには自分自身に執着するエゴを捨てなければならない。自分を捨て自分可愛さが消えればこそ、他者のために身を捨てられるのだろう。しかし過激派にとっての他者は絶対強者「神」だけである。「捨身飼虎図」は自我に執着する心を捨て、それが弱者である他者に捧げる慈悲の行為に転じることを説く。自爆テロは神以外の他者、かつ非ムスリムを異教徒として敵とみなして攻撃する。それは慈悲の無い自己満足に過ぎず、エゴを捨てるどころかエゴの塊といえるのではないか。生死を超越する宗教が持つ負の力である。
心の中の菩薩
宗教はこの世の価値を超えるものを教えてくれる。金や名声、愛、友情。私たちが大切だと思いこんで執着しているものに対して、本当にそうなのかと問いかける。その究極が自分の命である。エゴに飲まれる危険な一面もあるが、大切なもののために、時には命をも捧げる菩薩の慈悲は「仏性」として私たちの心にも存在するのである。