墓や碑には物語が刻まれている。その中には美談ばかりが伝えられている歴史の裏に潜む真実を今も訴えているものもある。キリスト教布教の町、長崎にある僧侶の墓「大日堂」もそのひとつだ。現代の私達に物言わぬ石は何を訴えているのか。
大日堂
墓や碑は黙してなお物語を刻み、歴史を語る。 長崎県大村市寿古町にある「大日堂」は、1574(天正2)年にキリシタンたちに殺害された僧侶・峯阿乗(みね あじょう)の墓である。その隣には「峯阿乗之碑」が並ぶ。僧侶の阿乗はキリシタンによる弾圧を避けるため大村から脱出するも、途中でキリシタンに捕まり殺害された。死骸は便所に捨てられたという。三代藩主・大村純信の代に阿乗の遺体を埋めた場所に大日堂が建立された。大村家阿乗の霊魂が大村家を祟るとの話もあり、現在でも供養が行われている。大日堂の名は祠に大日如来の石仏が祭ってあることに由来する。
キリシタンの文化破壊
戦国時代のキリシタン大名として名高い大村純忠は、1563年に洗礼を受けた後、地元領民への一斉改宗を行った。その一斉改宗は苛烈なものだったという。当時の宣教師たちは純忠に、キリスト教にとっては異教である神社仏閣の焼打ちなどを何回も要請していた。純忠は仏教の崇敬厚い兄・義貞との関係もあり、当初は要請を拒否した(後に義貞も改宗)。その一方で洗礼を受けた神父に、今後は寺院や僧侶などの面倒を見ないという約定を交わした。そして最終的には自らが寺院破壊を行い、弾圧の許可を出すことになる。純忠のお墨付きをもらったキリシタンは、大村領内の寺や神社を破壊、略奪、焼打ちと容赦のない弾圧・破壊の限りを尽くした。純忠とキリシタンたちが破壊した領内の神社は13、寺院は28にのぼり、この地の仏教文化は途切れた。なお、純忠は真言律宗・西大寺の末寺、宝生寺だけは破壊せず宣教師の宿舎などに使用し、敷地内には領内最大の教会を建てたという。宝生寺は1614年のキリスト教禁教令によって破壊されたと伝わっている。また、純忠と同じキリシタン大名の大友義鎮、有馬晴信、高山右近らも例外なく神官・僧侶への迫害し、神社仏閣の焼き討ちなど苛烈な攻撃を仕掛けた。本稿では触れないが、この時期、キリスト教勢力によって日本人奴隷が大量に流出した事実も重要である。
一神教の闇
キリシタンといえば迫害と殉教というイメージが強い。異国から海を超えキリスト教の布教に命を賭けた男たち。時の政府の迫害から逃れた潜伏キリシタン。殉教した信者たち。豊臣秀吉の命により磔刑に処された26聖人の悲劇は有名だ。彼らの信仰の厚さは事実であるし、尊敬すべき点も多いにある。同時にキリシタンの歴史は美談だけではない。キリシタンたちが国内の神社仏閣を破壊し、時には僧侶を殺害することさえあったことは知っておくべき史実である。
当時のカトリック教会は宗教改革の最中でプロテスタントとの対抗上、海外に新たな信者を求めた。この海外進出の組織がイエズス会、フランシスコ会である。ヨーロッパは大航海時代を迎えていた。彼らは教勢を誇ったカトリック国、スペイン・ポルトガルが進めた、キリスト教の布教と領土拡大という世界戦略の尖兵となって海外へ臨んだ。宣教師の目的はただの布教でなく、日本の植民地化にもあったのだ。
当時の状況を知るための必須文献「日本史」を著したルイス・フロイスは、そうした政治的な裏事情については当然だが触れていない。その一方で、神社仏閣の破壊や僧侶らへの弾圧については事細かに、当然のように記している。つまりフロイスにとって仏教神道ら異教徒の弾圧はまったく正しいことであり、隠す必要のない誇らしい行為だと本気で考えていたようだ。一神教である限りそれは仕方ないのかもしれない。自分たちの神以外はすべて悪魔なのだ。だからこその一神教なのである。今日の終わりが見えない中東問題の根底にもこの不寛容さがある。
真実を語る墓碑
宣教師たちは死の危険を乗り越え、東の果ての「異教徒の国」にまで到達した。貧困に喘ぐ民はキリスト教に救いを求め洗礼を受けた。彼らは「異教徒」を悪魔の教えから浄化しようとした。神社仏閣焼き討ち、僧侶の殺害は正義の行為だったのだ。こうした一神教の激烈な信仰心は「八百万の神」に抱かれた多くの日本人にとっては迷惑と恐怖以外の何物でもない。
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界遺産に登録されているが、私たちはキリシタン殉教の悲劇と共に、もうひとつの真実も同時に知っておかなくてはならない。死骸を便所に捨てられた「忌まわしい異教徒」の墓碑は、今も私たちに歴史の真実を語り、思いを訴えているのである。
参考資料
■大日堂(キリシタンから殺害された僧侶・峯阿乗の墓)
■大村純忠時代のキリシタンが行った別の側面l
■日蓮宗 要法山 常在寺
■高橋裕史「イエズス会の世界戦略」講談社(2006)