最期は老衰による静かな自然死か、元気に生きて「ぽっくり」「コロリ」と死にたいと願う人は多い。全国各地にある「ぽっくり寺」は観光客で賑わっている。しかしそれは本来の仏教の教えだろうか。
ピンピンコロリを願う人達のための寺院 ぽっくり寺
世に「ぽっくり寺」と呼ばれる寺院がある。死ぬ時は苦しまず安らかに、あっさりコロリと死にたいと願う人たちのための寺である。生きている間はピンピンして元気ハツラツ、死ぬ時はコロリと死ぬいわゆる「ピンピンコロリ」を望む人は多い。元気に生きて楽に死にたい。当然といえば当然の願いである。望まない人を探す方が難しい。その理由は「死の苦痛」。そして、終末期や寝たきり、痴呆などで家族や周囲に「迷惑をかけること」への恐れである。
そうした人たちのためにぽっくり寺はある。生きている間は無病息災。最期は「ぽっくり」と世を去ることを祈願する。奈良県の吉田寺、埼玉県の常満寺、東京の龍泉寺など、ぽっくり寺は全国各地に存在し、境内には「ぽっくり地蔵」「ぽっくり観音」などが鎮座している。
医学の発達は人を容易に死なせなくした。延命治療によって苦痛は増え、平均寿命が延びるほど「老後」が長くなり、寝たきりや痴呆のリスクが高まる。昔はそうなる前に死ねていたのである。進展する医学の代償は苦しみの老後だった。ピンピンコロリが難しい現代社会が「ピンピンコロリ」なる概念を生んだのである。
仏教とひろさちや氏の反論
ピンピンコロリを全面的に否定していたのが、2年前に逝去された仏教評論家のひろさちや氏であった。仏教の根本教義は、この世のすべてには実体が無く、「縁起」つまり「関係」によって存在しているように見えるだけということ。有名な「無我」論もすべては関係によって存在している(ように見える)という縁起の思想が基本となっている。実体としての「我」は存在しない。無数の矢印が一点を指すと、無いはずの円が浮かんで見えるように、様々な関係によって「我」があるように感じるだけだ。私たちは元々無いものなのにそれを失うまいと「執着」する。それが「欲望」「煩悩」であり、苦しみの正体である。執着を捨て、あるがままに自分を受け入れよ。それが苦からの脱却「解脱」への道だと仏教は解く。
こうした仏教の教えからひろ氏は、いつまでも若くありたい、健康でいたい、死にたくない…というのは欲望である。それを捨て去ったとき、はじめて人間本来の姿が見えてくると主張した。死や老いの恐怖を克服する必要などない。死の恐怖は人間であることの証である。そして「年老いてヨボヨボになったら、ヨボヨボ生き、ヨボヨボ死んでいけばいい」と述べている。
迷惑をかけるのは悪いことなのか
自分自身の苦痛はよいとしても、家族や周囲に迷惑をかけたくない。その気持ちは理解できる。しかしこれを一人称から二人称にするとこうなるのではないか。
「お前は家族に迷惑をかけるから早く死ぬべきだ」
迷惑をかけるから生きていてはいけない。これは「生きるに値しない命」ということにならないだろうか。ナチス・ドイツは「社会の役に立たない」精神障害者や身体障害者などを「強制的な安楽死」させる「T4作戦」を実行した。2019年の「相模原障害者施設殺傷事件」の犯人の男も同じ考えを持っていた。「迷惑をかけたくないから死にたい」という感情は恐ろしい思想になりかねない。そもそも迷惑をかけることは悪いことなのだろうか。人に迷惑をかけたことのない人がいるだろうか。
再びひろ氏の意見を拾うと、人は生きているだけで迷惑をかける。その認識が他者を受け入れる基本になる。周りの人に感謝し、人の迷惑は「お互いさま」と受け入れることが大切なのだ。苦しいなら苦しめばいい。ボケるならボケればいい。迷惑をかけ合い、許し、許される社会を作るべきだ。確かにそうした社会こそ「真の人間」の社会だろう。弱い者、役に立たない者を不要とするのは畜生道か修羅道である。
あくせくしてもいいのかもしれない
そうは言っても死やボケをあるがままに受け入れるのは難しい。親鸞の弟子唯円は「念仏を唱えても極楽往生が信じられない」と師に告白した。親鸞は答えた。「私もそうだ。こんなどうしようもない人間だからこそ阿弥陀様は救ってくださるのだ」
あるがままというなら、ピンピンコロリを目指しあくせくして「ぽっくり寺」に参拝する、滑稽な自分を受け入れてもよいのかもしれない。一方で、ピンピンコロリなど馬鹿馬鹿しいとするひろ氏の主張は知っておいていいだろう。ピンピンコロリを気にせず自由に生きていくことができるようになれるかもしれない。いずれの道を歩くかも仏のみぞ知るというものである。
参考資料
■ひろさちや「しょぼくれ老人という幸福 人生を幸せにする執着の捨て方」悟空出版(2015)