楽園や理想郷の存在を語る伝説は世界の各地に伝えられている。チベット仏教が説く「シャンバラ」は「浄土」以外に、仏教が説いた理想郷である。しかし近年様々な意匠に彩られてきた特異な楽園でもある。
理想郷 シャンバラ
楽園、理想郷、ユートピア。キリスト教の天国や仏教の極楽浄土を代表として、日本神話には天上界である高天原、沖縄にはニライカナイなどが伝わる。これらはいわゆる「あの世」であって死後の世界を指す。一方で現実世界のどこかに存在するとされた理想郷もある。南米のエルドラド、日本がかつて黄金郷「ジパング」と呼ばれていたのは有名な話だ。
シャンバラはチベット仏教に伝わる理想郷である。その国には穏やかで知性も精神的にも高い人たちが住んでおり、平和で争いのない理想郷だという。芳しい香りに包まれ美しい楽が奏でられ、国の中心にある宮殿は真珠や水晶、金銀などが散りばめられているともいう。楽園・ユートピアとされる情景として外すものはない。細部は「阿弥陀経」の極楽浄土に似ているが、シャンバラはチベット仏教の聖典のひとつ「時輪タントラ」に登場する。「あの世」とは異なり、この現実世界のどこかに存在しているとされ、天国極楽よりエルドラドなどのイメージに近い。その場所は崑崙山脈ともゴビ砂漠とも言われ、チベットのポタラ宮にはシャンバラへの通路があるとも言われている。それが本当ならダライ・ラマが亡命する必要はなかったはずだが、ロマンに対する野暮というものだろう。あの世ではない以上、どこであれ探せば訪れる可能性があることになる。後に地球空洞説に関連して流布された地下王国アガルタの首都であるともされ、チベットの地下深くに存在するという説が最も有力となった。
シャンバラをめぐる人々
シャンバラ伝説が世に広まったのは近代オカルティズムの祖といえる、神智学の創始者マダムブラヴァツキーの存在が大きい。彼女はチベットで「大師」に秘儀を受けたと称し、シャンバラについても言及している。神智学の導師で、画家や考古学者などの肩書も持つニコライ・レーリッヒという人物は、シャンバラに最も近づいた人物として知られ、シャンバラ存在の証を実体験したと著書に記している。レーリッヒはゴビ砂漠を探検中、シャンバラ伝説にある、妙なる香の薫りや、美しい音楽を聴いたという。また、シャンバラと現世との境界には3本の白い柱が立っているとされており、レーリッヒはその一本を見たと書いているのだ。
またシャンバラにまつわるオカルト話で有名なものにナチス・ドイツがシャンバラ(アガルタ)探索に乗り出していたというものがある。ナチスの中に神秘主義者が多くいたのは事実で、彼らはシャンバラの神秘的なエネルギーを求めたと言われる。
仏教神話の楽園にしては即物的な話である。レーリッヒの探検談でもシャンバラは砂漠のどこかに実在する王国であった。シャンバラ伝説は神智学の影響やアガルタ伝説との同一化などを得て、近代になって流布された。科学時代における「楽園」は純粋な霊的世界としての登場は許されなかったのかもしれない。
平田篤胤の「幽冥界」とシャンバラ
実際に「証」を感じたとするレーリッヒの証言は彼の妄言、あるいは幻聴だろうか。それでは味気ないだろう。この壮大なロマンを平田篤胤の顕幽論で捉えなおしてみる。篤胤は霊魂が止まる場所を「幽冥界」と呼び、天国や極楽のような遠い場所ではなく現世と重なる、世界の裏表のような存在だとした。そして「幽冥界」こそが真の世界であり、我々の現実世界は仮の世界であると説く。プラトンのイデア界に近いものがあり、現実世界と霊的世界の中間的な性質を持つといえる。この説を採用するとシャンバラは実際するとしても、この世と異なりつつ重なっている、高次元の世界として解釈できる。例えば2次元世界に住人に3次元世界の人間が足を踏み入れたらどう映るか。2次元には「高さ」が存在しないため、足跡だけが現れては残る。同じ世界の同じ時間、同じ場所に同時に存在していながら、2次元人には3次元人を認識することはできないのである。つまりシャンバラが高次元の世界なら、我々はその痕跡しか知ることはできない。レーリッヒはシャンバラに立っていながら見えていなかった可能性がある。薫りや音楽などの「証」のみ認識できた。それは自分たちの存在を示唆するシャンバラからのメッセージだったと考えることができる。
楽園と黄金郷の間
天国や極楽の実在非実在に関わらず、理想郷としての他界神話が今日まで伝えられているのは、死後の救いを求める我々の祈り故だろう。そうした中、シャンバラは宗教的な楽園であるにもかかわらず、現実に到達できる可能性を示唆している。最近のスピリチュアル界隈では霊的な方向にシフトされているが、本来は科学的物質主義の現代に生きる我々の祈りに適応する形で登場したといえる。シャンバラは死後の楽園と現世の黄金郷の間にそびえる独特の存在なのである。
参考資料
■田中真知「理想郷シャンバラ チベット奥地にひそむ賢者の国」学習研究社(1984)
■秋月菜央「チベットの地底王国 シャンバラの謎」二見書房(1994)
■松本峰哲「シャンバラ(Sambhala)考」『印度学密教学会 論集』27号 印度学密教学会(2000)