「水」について考えてみたい。水は蛇口を捻れば出てくる液体では終わらない。水は生きている者だけでなく、死者にとっても、神仏にとっても大切な、聖なるものである。
水の聖性
水には穢れを祓い、聖なる力を宿す聖性があるとされてきた。密教には灌頂(かんちょう・かんじょう)という儀式がある。密教の正式な弟子になった者には師僧が頭上から水を注ぐ。最も初歩の結縁灌頂は、目隠しをして曼荼羅の上に華を投げ、落ちた仏と縁があるとされ、その場で頭の上に水が注がれる。また墓参りの際に墓石に水を注ぐがこれも灌頂と呼ばれる。キリスト教の洗礼もほぼ同じ儀式が行われており、イエス・キリスト自身が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた。そもそもの話、水がある惑星は太陽系では地球だけである。太陽からの距離と地球の大きさが微妙にズレていても水は存在しない。この奇跡的なバランスに超越的な要因を見出す科学者や宗教家がいるが、理解できる感性ではある。水は奇跡の存在なのだ。
死に水
臨終を迎えると、その場に立ち会った遺族親族らは、湿らせたガーゼ、脱脂綿などで遺体の口元を濡らす。「死に水」「末期の水」などと呼ばれ、故人に近い順から行われる。俗に「死に水をとる」といい、故人が旅立つ前に喉の渇きを癒やす意味があるとされる。仏典では釈迦が臨終の際、喉が渇いたので水が欲しいと弟子に頼んだが用意できない。その時が現れ浄水を捧げた。釈迦がその水で喉を潤し旅立ったという(長阿含経)。これが由来となり仏教では故人の臨終の際に水を与えるようになった。また近代医学が発達する前は水が喉を通るかどうかで生死を見極めたとも言われる。 その後、遺体を洗う「湯灌」も衛生的な処理と共に、旅支度の意味合いが強い。俗世の垢を落とし、新たな気持ちで彼岸の彼方へ向かって欲しいという願いが込められている。そうした清めの力が水にはあるとされてきた。
水の宗教 神道
穢れを祓い、聖なる力を宿すという水の清廉さを仏教以上に重視したのが神道である。水の宗教と言っても的外れとは思わない。古事記に記された、国産みの神・イザナギノミコトが黄泉の国の穢れを清らかな水で祓い落とした話は神道の根幹であると思われる。なお、この時の水は海水で「清め塩」のルーツもここだとされる。その土地の風習慣習によって異なるが、神棚がある家は、毎月1日と15日に水や榊を交換する。神社ではこの日に国家安泰や神恩感謝(しんおんかんしゃ)を祈り、月次祭(つきなみのまつり)という祭礼が行われる。もちろんこうしたことは毎日行うのが望ましいのは言うまでもない。神道は穢れを厭い清浄を求めるが、それは精神性に対しても同様で、曇りの無い清らかな心、清明心(清き明き心)が尊ばれる。曇りの無い心を尊ぶ心性は、日本人が勝負事や政治などに、勝敗損得以上のクリーンな精神を求める心性につながるといえるだろう。その土壌には豊富な水の存在があるといえるかもしれない。日本は「豊葦原の瑞穂の国」と言われた水の清らかな国でもあった。科学文明発達の大きなツケとして環境破壊が問題とされる現代でも、日本はなお豊富な水資源と世界トップレベルの浄水技術によって綺麗な水が飲める数少ない国である。一方、見た目の清浄さや物理的な清潔さだけが水の聖性ではない。
水の性質
古代ギリシアの哲学者タレスは「万物の根源は水である」と説いた。万物には水気、水分が含まれている。石や鉄などの鉱物にも。そして生命の誕生と存続には水が不可欠である。タレスは「半円に内接する角は直角である」で有名な「タレスの定理」を証明し、ピラミッドの測定をした数学者でもあった。彼は当時の宗教的世界観において万物の根源を、神や妖精などの神話的な何かではなく、水という物質に還元したことで科学的世界観を開いたとされる。これはこれで納得のいく説明だ。しかしタレスに限らずソクラテス以前の哲学者は著作を持たず、彼の真意はわからない。科学的世界観的な解釈もアリストテレスによるものである。「最初の哲学者」と呼ばれるタレスが万物の根源に水を選んだのは、物質的な意味のみではなく、水の中にこの世を超越した何かを見出したからではないか。哲学者・古東哲明は水の象徴的形質に着目した。水は無色、無形、無味、無臭。何も無いようで、あらゆる色、形、味、臭いになる。無にして全て。このような物質は水だけである。この解釈は老子の「上善は水の如し」で知られる水の教えに近い。水は万物に恵みを与えながら、自分は低い所へ流れていく。老子は水に万物への恵みと万能性、謙虚さを見出した。謙虚にまで至る精神性を水に求めるなら、インドのガンジス川も聖なる川とされているが、水質自体はお世辞にも清潔とはいえない。それでもインドの人々にとってガンジス川の水には神々と死者が宿っているのだ。
死に水は最高の善行?
水といっても性質、形質、清浄、精神性と様々な見方がある。すべての生命は水から生まれ水に還る。華厳経の思想に依れば、一滴の水にも全宇宙が含まれている。死に水の話に戻るが、死に水は葬送儀礼の最初に行われる。最期の別れの始まりである。故人に水を与えることはその聖性を与えること。旅立ちへの餞としては上善、最高の善行といえるかもしれない。
参考資料
古東哲明「現代思想としてのギリシア哲学」講談社(1998)