神仏を幻視する、死後の世界を見る、宇宙と一体になる…。この世ならざる世界とコミットし、死生観を大きく変える可能性がある、いわゆる神秘体験は宗教には欠かせない。元々は無神論とも言われるほどだった仏教も宗教である以上、やはり切り離せない現象であった。日本において仏教は神秘体験とどう向き合ってきたか。

密教・法華系と神秘体験
神秘体験といえば密教である。空海が修行中、口に火の玉が飛び込んだという話はよく知られている。密教の瞑想はイメージ、ビジョンを重視するため、この世とはかけ離れた様々な世界の風景を幻視することがある。その結果、仏教が説く「法」や「真理」といった非言語的な境地を直接体験することができるとされる。しかし密教も仏教であるからには神秘体験そのものが目的ではなく、悟るための過程であることは忘れてはならない。
また「法華経」を唯一絶対の経典とし、「南無妙法蓮華経」の題目を唱えることで悟りに近づくとする、日蓮宗の系統も神秘的な世界を否定していない。現在でも祈祷を行なう祈祷僧を養成している。彼らにとって法華経は仏法を説く哲学書ではなく霊験を持つ神秘的な書物なのである。
禅系と神秘体験
対照的なのが禅だ。密教などが神秘体験を利用して悟りを得ようとするのに対し、禅は悟りを得るために神秘体験を「魔境」として、これに陥ってはいけないと説く。生死を超えた「無」の境地を追究する禅の世界では神秘体験は雑念が生んだ幻覚に過ぎない。密教が意識を「広げて」いくのに対して、禅はひたすら意識を「深めて」いくと表現しても良いかもしれない。
神秘体験を積極的に利用する密教と、徹底的に排除する禅の違いは寺院にも現れている。密教寺院が壮大な曼荼羅や、個性的な明王や天部などの仏像に彩られているのに対し、禅寺はシンプルで質素そのものである。なお、書物(法華経)を信仰の対象としている日蓮系もシンプルである。
浄土系と神秘体験
阿弥陀仏の慈悲にすがることで、死後の極楽往生が約束されると説くのが浄土宗、浄土真宗らの浄土系である。その方法が「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えること、それだけで良いとした。ある意味、禅以上にシンプルな教えは教養のない庶民に受け入れられた。畑仕事をしながらでも念仏はできる。意識の集中によって起こる神秘体験とは無縁に思えるが、浄土宗の開祖・法然本人は、ひたすら念仏を唱える念仏三昧による神秘体験が記録されており、死後の奇瑞も多く伝えられている。また、近代の念仏行者として名高い、浄土宗の僧侶山崎弁栄は見仏という神秘体験を説いていた。
法然の弟子、親鸞による浄土真宗になると徹底して神秘体験を排除する。というより、密教、禅、念仏三昧などは選ばれた僧侶だからこその現象である。真宗の聖典のひとつ「歎異抄」には極楽や仏の存在を信じられないダメ人間こそが救われるのだと逆説が唱えられている。神秘体験を否定する禅系も排除するとはいえ「魔境」なる非日常的な体験をすることはするわけである。1日中座禅瞑想していればそうなることもあるのだろう。浄土真宗はそうした体験などとは縁遠い大勢の民に受け入れられた結果、日本最大の仏教勢力となった。現代でも檀家の数は浄土真宗の2派がトップを占めている。人格神的な阿弥陀仏への帰依という、本来の仏教からは最も離れているように思える浄土系が、最も神秘体験を遠ざけているのは面白い。
神秘を求める人々
オカルト系雑誌などではよく、誰でも神秘体験ができる〇〇といった特集が組まれていた。ヨガ、密教、古神道、西洋魔術…そうしたオカルトムーブメントが跋扈する80〜90年代、密教・ヨガ系のオウム真理教が頭角を現した。信者の中でも理系エリートと呼ばれる人達も神秘体験によって180度価値観が変わってしまったという。オウムは神秘体験を実現するカリキュラムとしてはかなり優れていたのだろう。教派神道系・大本教の出口王仁三郎は「鎮魂帰神法」と呼ばれる瞑想テクニックを取り入れ、ひとりひとりが自身で神の存在を確信できるようにした。だが後に神秘体験の危険性を重視して禁止するに至っている。オウムはその危険性を利用して信者を獲得したのであった。
そこまでして神秘体験など経験したいものなのだろうか。ウィリアム・ジェイムズは神秘体験が神秘現象の実在を証明することにはならないと言った。神秘体験によって現出した世界が単なる脳のバグである可能性は高い。しかしそのバグは本人にとっては強烈で、死生観や価値観が一転することがある。意識的に死の向こう側が確信できるのは確かに大きいかもしれない。現実逃避したい人だけではなく、死に直面している人やその家族、または遺族にとってはなおさらだろう。それでも劇薬ともいえる神秘体験に対し、正統派の仏教はかなり慎重な付き合い方をしたのである。
神秘体験と折り合う仏教
最近は医療系大麻の扱いに関する議論が交わされているが神秘体験も劇薬である。密教はこれを上手く利用し、禅は拒否する。浄土は一部を除いては距離を置く構えだ。禅、浄土が危険な要素もある神秘体験を遠ざけるのは賢明といえる。一方、伝統的な密教は師の指導によって正しい方向に導かれる。仏教における神秘体験は、いわゆる「神がかり」や「召命体験」と呼ばれる、受動的な神秘体験とは異なり、大半は修行の過程で訪れている。仏教は長い歴史の中で神秘体験と折り合ってきた。くれぐれもオウムのようなカルト教団には関わることなく、地味なかもしれないが、本来の仏教と交わって頂きたいものである。