霊魂、魂、天国、あの世…は存在するのか。科学時代の今日ではナンセンスな話である。そういったものを否定する方がクールで理知的なイメージがある。仏教が一部の知識層や読書家に好まれるのは無神論的な性格による。しかしそれでいいのだろうか。仏教の、宗教の役割とは。
あの世は存在しないという考え方の裏付けとなっている科学の存在
霊の存在、あの世の実在などというものは公言しない方が理知的であるようだ。科学的には死んだ人間とはもう会えない。遠い場所に行ったからではなく、死とは消滅だからである。霊だのあの世だのは人間が作った想像の産物であり、我々は死=無になることを受け入れなくてはならない。しかし若かったり健康ならともかく、自身や家族が病床にある時などに、こうしたクールな死生観を受け入れることは難しい。そこまでして我々は理知的であらねばならないのだろうか。
仏教は霊の存在を否定してきた
一般的な葬式仏教のイメージとは違い、仏教は無我論を説き、物理的実在としての霊の存在を否定する向きがある。ブッダは死後の存在について語らなかったとされ、クールな哲学として、科学的思考を好む理知的な人たちからの受けが良い。初期仏教だけでなく、中国を経由し日本に根付いた大乗仏教の中でも浄土真宗や禅宗では霊魂の存在は否定されている。明確に霊魂の存在や死後の世界を肯定しているのは密教系と法華(日蓮)系仏教くらいである。その密教も西洋文明が押し寄せた明治時代には危機に晒された。
仏教が近代化した明治時代
明治時代といえば「文明開化」。黒船来航により鎖国は解かれ日本は急速に欧米化していった。「欧米化」は「近代化」と同義であり、近代化とは昔ながらの「迷信」を含む伝統的な宗教的価値観から、自然科学に立脚した唯物論的価値観への移行である。 こうした時代の流れに宗教も巻き込まれていく。西洋の自然科学はキリスト教による影響が大きいのだが、近代化を推し進める日本は成果としての科学のみを吸収した。世界初の「工学部」を設立したのも当時の日本である。そして仏教もまた近代化を迫られていった。
密教とそれ以外の動き
その大きな流れのひとつが「新仏教徒同志会」である。彼らが発行した雑誌「新仏教」の綱領には「迷信打破」が掲げられた。近代化に向けて最も活動的だったのは、霊魂の存在を否定する浄土真宗である。同志会も高嶋米峰(浄土真宗本願寺派)、境野黄洋(真宗大谷派)、渡辺海旭(浄土宗)らを中心に結成された。逆に近代化に苦戦を強いられたのが密教、特に密教専門の真言宗である。密教は霊魂の存在を認めており、加持祈祷によって神秘的な効用をもたらすとされてきた。密教の根幹を占める魔術性、呪術性は近代化=科学的価値観への大きな妨げになった。同志会は仏教からの祈祷排斥を唱えた。一方、真言宗も時代に順応し加持祈祷に寄らず、社会事業に取り組むなどの現実路線を模索していった。しかしやがて同志会の祈祷排斥の態度も軟化し真言密教と融和していった。その背景には、結局仏教が宗教である以上、民衆はこの世ならざる世界による「安心」を期待されていたのである。
そもそも理知的なるものは絶対的に正しいのだろうか。特に禅系に多いように思われるが、霊魂の存在や死後の世界を解かない仏教は知的でエラいというような風潮が見受けられる。しかし誰にも平等にやってくる「死」を前に、宗教がクールな哲学ぶっていてどうするのだと言いたくならないか。
霊魂は存在すると明言するべき理由
宗教者(特に仏教)ははっきりと霊の存在を明言するべきである。科学的な証明などは必要ない。科学には科学の、宗教には宗教の領分がある。自然科学的価値観に迎合し、曖昧模糊な表現でごまかしているのから説得力を失う。宗教者は霊の存在や霊魂として実在する死者を供養することの大切さを説くべきだろう。宗教が霊の存在を認めないことのメリットとは何なのか。精々が科学的論理的な自分をひけらかして悦に浸るくらいではないか。霊の存在を認めれば、大切な人との別れ、自身の死の恐怖を和らげることができる。霊なるものの定義は一般的には肉体に宿る実体である。この説に照らすなら死とは霊が肉体という服を脱ぐだけのことになる。また、霊や神などの人智を超えた存在を信じることで、人間が宇宙で一番などの傲慢が消える。また自然が単なるモノではなく命に満ちているという世界観を持つことができ慈悲の心が宿るかもしれない。デメリットもある。悲しみの弱みにつけこんだカルト教団などの存在である。そのようなものにハマるくらいなら、霊の世界観を2500年かけて構築した伝統宗教に任せた方がよい。だからこそ民族、地域に密着した伝統宗教、ことに仏教や神道が霊の存在を説くべきなのである。
宗教の領分と霊魂の存在
霊の存在を認めないなら彼らは何に祈っているのだろう。霊を信じない無神論ならいい。そうではない人たちは何に祈っているのか。千鳥ヶ淵戦没者墓苑は国が建築した無宗教慰霊施設である。小林よしのりが「あそこは無宗教施設だから霊はいないんだ」と言っていた。まさにその通りで、特定の宗教にしろ民間信仰にしろ、宗教的な場所以外に霊は存在しない。霊は宗教(的なもの)の専売特許なのか。そうなのである。霊は科学では存在しないとされている。公的、公教育の場で霊的存在を公言することは許されない。霊魂と死後の世界の実在を提供できるのは宗教だけである。科学には科学の領分があり、宗教は非科学的な領分を担当すればいいのではないだろうか。
参考資料
■阿部貴子「真言僧侶たちの近代」『 現代密教』第23号 智山伝法院(2012)