お盆の季節になると「施餓鬼(せがき)」の文字を見ることが多くなる。盆と混同されがちな施餓鬼の意味を考える。それはまったく無関係な、しかし哀れな他人への慈悲の心の現れである。
施餓鬼法要とは
施餓鬼とはその名の通り、餓鬼に施しを与える法要のことである。餓鬼とは生前物欲に溺れ、飢餓に苦しむ世界「餓鬼道」に堕ちてしまった者のことである。飢えと乾きに苦しみ、食べも物や飲み物を求め、やっと手に入ったと思えばたちまち火に変わってしまうという。この餓鬼たちに食べ物や飲み物を施し、浄土往生を願う仏事が施餓鬼法要である。施餓鬼会、お施餓鬼などとも呼ばれほとんどの宗派で執り行っている。よくお盆と混同されるが、お盆は自身の先祖、祖霊への供養であるのに対し、施餓鬼は餓鬼道に墜ちている霊全体に対するものである。また、施餓鬼とは言うものの、無縁仏などの報われない哀れな霊も対象に含まれる。盂蘭盆会で同時に行われることが多く、普段参拝しない人がお盆に寺に行くと行われているからそう感じる人がいるのだろう。本来別の仏事で毎月施餓鬼を行っている寺もある。
餓鬼への施しは大変な善行とされ、その功徳は先祖や家族にも向けられるという。なぜ縁もゆかりもない、他人である餓鬼たちへの施しにそのような功徳が込められるのか。儒教が家族、近親者など近い存在への孝行を重視する「他愛」とは対象的に、仏教は生きとし生けるものすべてに慈愛を注ぐことを説いている。施餓鬼供養は普通の人が行える菩薩行なのだ。
六道輪廻と解脱
仏教では死後六つの世界に輪廻転生するとされる。これを「六道輪廻」という。六道とは、高貴な神々の世界「天道」、闘争に明け暮れる世界「修羅道」、物欲にまみれ常に何かに飢えている「餓鬼」、理性なき本能剥き出しの動物界「畜生道」、人の道・天の道を踏み外した罪人が墜ちる「地獄道」。そしてこの天地善悪の間に揺れる不安定な「人道」を指す。天は一見良さそうだが、神々にも寿命があり死ぬときは地獄を遥かに超える苦痛が待っているという。仏陀は天を含む六道を延々と繰り返す輪廻から抜け出す「解脱」を説いた。善行は解脱をするために積むべき行である。六道輪廻とはつまりは快楽や本能、物欲などへの執着といえる。これらへのこだわりを一切捨て去り、魂が自由になるとき解脱への道が開かれるとされる。縁の無い他人への善行は直接自分の得にはならない。純粋な慈悲の心を積むことで魂が磨かれる。それが功徳である。もちろん「功徳を得たい」という思いもまた欲ではある。餓鬼道はモノが溢れている現代の人間がもっとも陥りやすい道かもしれない。
縁とは
仏教の法からすると餓鬼たちと「縁もゆかりもない」ということはない。私たちはひとりでできることはほとんど無いといっていい。周りを見渡してみよう。そこには何があるか。室内ならスマホ、テレビ、椅子、テーブル…屋外なら家、ビル、アスファルト、自転車、車…どれひとつして自分がひとりで作り出せるものはない。看板ひとつ取ってみても、看板それ自体の設計する人、実際に作る人、文字やデザインを描く人、設置する人…様々な人たちのつながりの末に今、ここに存在する。自分自身もそうだ。宇宙開闢から途方ない時間と、空間の中で今、ここに存在する。膨大な時系列と時系列がたまたま結びあった結果、今、ここで私とその看板は出会ったのである。もし、あの日あの時の選択が違っていたら。ほんの少し思考や行動がずれただけで、縁は結ばれていない。これを「縁」「縁起」という。
それはわかるが「縁もゆかりもないように見える」他人のために何かしてやる余裕はない、という人もいるだろう。そこで仏教は施餓鬼のような催しを行い人々に善行を積ませる。そもそも、私たちの先祖が餓鬼に墜ちてないとは限らない。罪の無い人間などいるだろうか。カトリックでは煉獄の炎に焼かれ苦しんでいる死者たちの浄化を早めるために、遺族が死者たちの救済を執り成す祈りを行う。施餓鬼の供養で救われるのは自身の先祖かもしれない。その意味では施餓鬼法要が盂蘭盆会の際に行われるのは理に適っているといえる。
そんな世界が現実にあるはずがないと否定する人もいるかもしれない。しかし施餓鬼で学ぶことは他人への慈悲、「人に優しく」である。大切なことではないか。最近は施餓鬼を開運アップに最高などと喧伝する人もいるが、きっかけはなんでもよい。施しを行って善行を積む良き縁である。
人に優しく
仏事とは疎遠になりがちな時代である。墓参りなどと直結するでもない施餓鬼には特に参加する必要はない。だがその意味を知った時は餓鬼と縁が結ばれた時でもある。餓鬼に対して、やさしい気持ちで手を合わせるくらいしてもいいだろう。